絞殺魔

リチャード・フライシャー、1968。1962-64年にかけて起こった「ボストン絞殺魔事件」の映画化。ドキュメンタリーな雰囲気もある映画なのだが、映像の切り口をたくさん持っていて、まず驚かされるのが画面を複数に分割させることだ。これで音楽が入ってこればいかにも60-70年代的なムードも出ようものだが、この映画では一切音楽を使っていない。それゆえに画面分割はポップな演出というありきたりな描写に陥ることがない。そして映画は中盤になって、犯人(実際には冤罪説もあるらしいが)トニー・カーティスが登場する。トニー・カーティスはまもなく逮捕されるのだが、病的な二重人格的者であり、物証もないため自白がないと裁けない。そこで映画はトニー・カーティスとヘンリー・フォンダのぶつかり稽古の様相を呈していくことになる。トニー・カーティスのフラッシュバックを引き出す中で、ヘンリー・フォンダがフラッシュバックに登場したり、鏡まみれの演出なども効果的だ。ただ、誰も悪巧みをしていないギリギリの張り詰めた空気は見ていてしびれた。そしてある瞬間から犯人は無言になる。このときカメラは動く犯人の動作は捉えず顔面のみをひたすら活写する。その強烈な画面から、そのまま映画はエンディングへと向かう。終盤はとても見ごたえがあった。100点。

影の軍隊

ジャン=ピエール・メルヴィル、1969。ナチスドイツ占領下のフランスでのレジスタンスを描いた物語。かなり陰鬱な映画になっている。青を貴重とした冷たい映像と、抑制された演出によって、一気に見せてしまうのはさすがメルヴィルといったところ。人の移動もやたらと多くて画面が止まることがあまりない。ただリノ・ヴァンチュラの存在感のなさはなんなのだろう。原作モノだからそうなってしまうのだろうか。シモーヌ・シニョレが爆発的な存在感だったたため、そのアンバランスさがどうにも気になった。もしかしたらレジスタンスにヒーローなどいないのだという象徴としてのリノ・ヴァンチュラということなのかもしれない。実際のところ、いかにもレジスタンス、いかにもナチ、といったカリカチュア的な描写はこの映画にはほとんど存在しない。レジスタンス映画に発生しやすい、スリルやサスペンスもあまり発動することがない。そして銃撃戦などのアクションの少なさ。この映画は移動に次ぐ移動で成り立っているのだが、それがアクションの軸になっている。すべての人間がやたらと動いている姿は、世界が青いことと同じように映画のテイストを決定づけている。ピエール・ロムによる撮影は素晴らしかったのだが、欲をいえばアンリ・ドカエの撮影でも見たかった。ありえないことだけれど、メルヴィルのファンはついついドカエの画を空想してしまう。95点。

エル・ドラド

ハワード・ホークス、1966。エル・ドラドに戻ったガンマンのジョン・ウェインは、土地の利権をめぐる対立の一方に雇われようとするのだが、旧友の保安官、ロバート・ミッチャムによって反対側につく。そんな状況でのマッチョなアクション西部劇。この映画はとにかくロバート・ミッチャムが素晴らしい。マトモなのは冒頭だけで、あとはアル中か、酒の飲めないアル中なのだが、当然ギリギリ戦えるところをちゃんとキープしていて、ダメな部分もいい部分も見せ場があってかっこいい。それに比べるとジョン・ウェインはおとなしめだ。そうはいっても半身麻痺状態で敵の根城を正面からひとり乗り込んだりして無茶をかなりやる。この映画はジョン・ウェイン、ロバート・ミッチャムが主役で、ジョン・ウェインが拾った若者ジェームズ・カーンとロバート・ミッチャムの部下の爺さんの4人組で戦う。道を隔ててジョン・ウェインとロバート・ミッチャム、ジョン・ウェインとジェームズ・カーンが歩き、それをトラッキングするショットがある。その類似と反復はすばらしく美しかった。ひたすらバックするジョン・ウェインの馬もかなり迫力があった。最近見た『リオ・ブラボー』と比べると、いくぶん娯楽的、大衆的になったような気がする。ユーモアもふんだんに取り入れられている。95点。

マッドマックス 怒りのデス・ロード

ジョージ・ミラー 、2015。人気アクション・シリーズの30年ぶりとなる第4弾。この映画は2010年代を代表する映画であると思う。初っ端から説明不足のままアクションが咲き乱れる。そしてそのテンションを最後まで維持してしまう。ただこの映画の感想などを見聞きしているとなぜここまで人を熱くするかという感じでちょっと引いてしまう。そもそもこの映画、間違えて二回見てしまった。すぐに気がついたけれど、衝撃を食らった映画なら間違えて見たりはしない。個人的にはよくできたノンストップ娯楽アクションという印象だった。映画はアクションだ、という意味では、この映画は見事なアクションを見せてくれる。アクション一発でここまで見せるのはすごいことだし、物語構成も見事だ。タイトな描写によって物語をアクションへと落とし込むことに成功しており、人物設定が浮かび上がってくる。ただ、この映画は、ゲームとかミュージカルなどと同じような世界を持つに至っていて、そういうところに入っていけない場合は置いてきぼりを食ったような気になってしまう。主演はマックスことトム・ハーディではなく、シャーリーズ・セロンになっている。この映画にはダントツのトップスターがいないからこそ、一人ひとり演者が素晴らしく際立っている。二度目は一度目よりは楽しめたような気がする。90点。

顔たち、ところどころ

アニエス・ヴァルダ、JR、2017。アニエス・ヴァルダとグラフィティアーティストのJRのふたりが名もなき人々を素材にした巨大ポートレートを作りながらフランスの田舎町を旅するロードムービー的なドキュメンタリー映画。まず、JRの優しさとヴァルダの持つ軽やかさが映画全体を覆っている。まるでエッセイのような映画だ。ふたりが放つ独特の空気感があり、飄々としていて、やさしくて温かい雰囲気に満ち溢れている。そこは他の映画とは決定的に異なる部分で、この映画の最大の魅力といえるだろう。田舎の名もなき人々である被写体を浮き上がらせるのは、まずJRの作品があって、それとヴァルダらしい洞察力のある人間観察というものがあるのだが、それは分業ではなく共同作業によって生み出されている。しかし共同作業であることをあえて強調もしないから、あまり意識することもない。ドラマが少ないとは思うのだが、それでもアンリ・カルティエ=ブレッソンの墓参りや、一夜にして消えた海辺のギイ・ブルダンの写真などはインパクトがあった。ルーブル美術館でのゴダールへのオマージュがあり、JRはゴダールの類似としても描かれ、最後にゴダールに会いに行くのだが、そこはさすがにハラハラする展開が見られた。なにはともあれこの映画の雰囲気、そしてヴァルダが醸し出す雰囲気は、とてもチャーミングで幸せな気分にさせられた。95点。

スリー・ビルボード

マーティン・マクドナー、2017。何者かに娘をレイプされて殺害されたフランシス・マクドーマンドが、解決しない事件への抗議のために3枚の広告看板を設置するするところから映画ははじまる。しかし物語は犯人探しのベクトルへと進むことがほとんどない。そのあたり、大胆かつ予測不能な脚本が本当に素晴らしい。善人と悪人をバッサリと区別したりはしないし、登場人物の行動もかなりトリッキーでありながら、映画的な役割をきちんとこなしている。これにはキャスティングの妙もあるだろう。ウディ・ハレルソンだからこそトリッキーな状況は軽くいなせるのであり、サム・ロックウェルは変化を見せるのだが、どうせ変化するんだろうなと最初から思わせぶりだ。そこをしっかりと乗り越えているのだから、脚本も演技も見事という他ない。彼の存在が物語の傍流から本流へと誘われ、ラストへと至る流れは本当に美しい。そしてフランシス・マクドーマンド。映画はもちろん、アメリカを象徴するかのような存在感。トリッキーで、激情したり冷静だったり優しかったり善人だったり悪人だったりするのだが、見事にわからないというか、顔面で語るというか、共感をいなしたりぶった切ったりしながらも、つねに共感の近くにいるようなキャラクターを見事に演じていた。ラストが非常に良くて、暗転したときにはうれしくなってしまった。100点。

バニシング・ポイント

リチャード・C・サラフィアン、1970。車の運び屋コワルスキーはデンバーからサンフランシスコまで車を運ぶのだが、友人と15時間以内で届けるという賭けをした。全速力で飛ばすコワルスキーと追う警察という単純なあらすじと、深いテーマを併せ持ったニューシネマの代表的作品である。特異な点はコワルスキーが狂気の爆走野郎ではないという点だろう。カーチェイスして川に落ちたヤツの安否を確認したり、ヒッチハイカーを簡単に車に乗せたりする。道中でコワルスキーのキャラクターは肉付けされていくのだが、警官時代に上司のレイプを止めたことと、恋人が死んだことが強調される。警察は悪として定義付けられ、恋人の不在はこの爆走にかなりの影響を与えているように感じた。もうひとつ強調されているのは、ラジオDJとの関係に代表されるホモソーシャルな心の交流である。男の絆的な関係があちこちに散見されるなか、ラジオDJとは会うこともなく心を通わせていく。そしてコワルスキーはヒーローとなる。一般的なヒーロー像とはかけ離れたコワルスキーの温和さが、独特のホモソーシャルな雰囲気を作り出している。警察権力には従わないコワルスキーなのだが、最後には消失する。映像として単純に見れば自爆をする。ここにはいろんな解釈をぶち込めるだけの説得力がある。あとはもう少し音楽のセンスがよければ最高だった。95点。