ツールボックス・マーダー

トビー・フーパー、2003。映画を構成する要素が、偶然もあるのかもしれないのだが、見事に調和している。低予算らしい照明や撮影、舞台設定と見事に合致するような華のない役者たち、様々な工具と改築中のボロアパート。同時に鳴らされる複数のノイズ。そしてトビー・フーパーの見事なホラー演出。改築中のアパートは工具箱みたいだし、撮影しているカメラは工具箱に転がっていそうなチープでリアルな感じがする。この映画を見ているとカメラと工具箱の距離がすごく近いような気がして怖くなるし、登場人物も同様に工具箱に近いガラクタ感があり、それがリアルさを醸し出している。すべてがガラクタな感じはアパートという状況がセッティングされることによって決定的となる。物語はほぼすべて改築中のアパート内部で展開される。冒頭、殺される女に寄り添いながらカメラはアパートに侵入する。それから主役の夫婦がフォーカスされるのだが、一晩のうちに群像劇的に登場人物が見事に描写されてゆく。この脚本と演出の巧みさがあるからこそ、本筋のホラーも面白味も増すというものだろう。視界を覆うカーテンやビニールや雨や画面や覆面や光や闇なども効果的だ。ホラー映画のことはよくわからないのだが、この映画は原点回帰型でありながら、現代の安価な撮影によるチープな感じを最大限に利用している。アパートオンリーの撮影ではミニマムな状況を見事に最大化している。そこで際立って見えてくるものが工夫でありアイデアなのだ。そしてホラー映画というものは、恐怖がありアイデアがあるだけで十分価値があるものだと思う。95点。

泥棒成金

アルフレッド・ヒッチコック、1955。ヒッチコックほど映像で語る映画監督はあまりいない。そんなヒッチコック映画のなかで、この映画の映像演出は他とは少し様相が異なる。野心的な映像演出が過剰なまでに炸裂するような、ヒッチコック的な映像演出はあまり見られない。代わりに優雅で華麗な映像美によって大いに映画は語られるのだ。まずこの映画ではじめてロケーション撮影をするヒッチコックを見たのだが、ロバート・バークスの撮影と近年のリマスタリング技術が素晴らしかった。あまりにも美しい映像が映画全体を貫いている。特に空撮などの俯瞰ショットは圧倒的だ。ロケーション撮影はもうそれだけでわくわくするようなきらびやかさがあった。そしてそこにいるのがケイリー・グラントとグレース・ケリーという大スタアなのだから美的映画としては申し分ないのだ。物語の進行もゆったりとしておりかなり優雅な映画になっている。個人的にはグレース・ケリーのママがよかった。ケイリー・グラントを読み切る力には説得力があったし、娘のグレース・ケリーとの対照も効果的に描かれている。正体をバラしたときの対照やケイリー・グラントに対する静と動の対照も効いていた。ただ映画としていまいち乗り切れなかったのは、やはりヒッチコック的な映像演出があまり見られなかったからだろう。映像での語りが強いのはいつものヒッチコックなのだが、ヒッチコックの署名入り映画という感じがしないのだ。署名などなくても構わないのかもしれないし、署名とはなにかという問題はあるのだが、グレース・ケリーの映画という紹介をしたくなるようなエレガントな映画だった。90点。

裏窓

アルフレッド・ヒッチコック、1954。この映画ほど台詞がいらない映画はあまり見たことがない。映像で語る映画であり映像はジェームス・スチュワートの視線を中心に描写される。ただヒッチコックの映画は音に関しては非常に鋭敏であり、この映画も台詞はなくてもいいくらいなのだが、音は不可欠となっている。映画を見るという行為そのものは、覗き見にかなり近い。だからこの映画のなかの覗き見するジェームス・スチュワートの主観ショットは見る者と同期しやすい。映像が見えているのではなく見ているという感覚に引きずり込まれるのだ。しかしその覗き見感覚自体が素晴らしいのではなく、覗き見感覚によって映画の素晴らしさが一層際立っていることが重要だ。たとえばグレース・ケリーとの最初のキスシーンは驚くべき効果をもたらしている。覗き見によって矮小化された視覚に突如あらわれる超客観的ヒロイン。そのシーンか二度目かは忘れたのだが、左右のバランスがキスの瞬間に逆になったりするのも効果的だった。グレース・ケリーは覗き見スタイルによって逆に際立っていたものの象徴といえるだろう。犬が死ぬシーンは中庭での出来事なのだが覗き見スタイルから飛躍して客観ショットが連発される。これも覗き見スタイルがあるからこそ際立っている。覗き見は覗いているジェームス・スチュワートにカットされる。この基本的なモンタージュはジェームス・スチュワートの好演抜きには語れない。中庭の風景や人間模様も素晴らしく、あとは本筋の事件なのだが、これがおもしろいのに詳細がよくわからなかった。でもまあわからなくてもいいやと思える映画ではあった。100点。

南極料理人

沖田修一、2009。商業映画第一作目。南極に男8人を集めておきながら群像劇とはならない。独特のオフビートな温度感が群像劇による熱を嫌っているかのようだ。隊長きたろうの存在感のなさは群像劇回避の象徴として機能している。2011年の『キツツキと雨』では役所広司が仏様のように見えたものだが、この映画では堺雅人がその役割を見事に演じている。彼のこころの状態がそのまま映画になったかのようだ。映画の尺が少し長いような気がするのだが、南極滞在の長さを表現するのにはこれくらいは必要なのかもしれない。そう思わせるだけの説得力はあったのだが、宇梶剛士のくだりはまったく必要ないような気もした。物語は人物の内面に深く侵入しない。映画のはじまりから最後の食卓まで、南極ではいろんなことが起きる。いろんな人のいろんな思いが語られる。しかし信頼や不信など人と人との関係性を描くことを極端に避けているし、シリアスな思いも語られることはない。だから最後の食卓まで見ても8人の人物から見えてくるものは少ない。それだけこの映画には劇的ではないのだ。劇的な状況よりも喜劇的な状況に重きが置かれ、その喜劇的な状況はかなり低い温度感で語られる。しかしその劇的ではないドラマのなかで8人がバラバラになることはない。まず南極という極地があり、さらに決定的となるのが食卓や食事であり、そこで8人を必然的に集団化させているのだ。これは擬似的な家族の風景といえるだろう。この映画は堺雅人を軸に、並行する擬似的な家族と本物の家族を類似させ、それを反復させることで家族の美しさが描かれているのだ。95点。

私は告白する

アルフレッド・ヒッチコック、1953。冒頭から死体まで、ヒッチコック以外の人物がひとりも登場しない風景ショットと「DIRECTION」という文字と矢印。『見知らぬ乗客』につづき冒頭から度肝を抜かれる演出が炸裂している。この映画は『見知らぬ乗客』のような遊び心満載の演出が控えめで真面目な映画という印象だ。しかし序盤の明らかにムルナウ『最後の人』のオマージュであろう人物と影の演出など、強烈なビジュアルイメージが随所に見られる。絶品な演出ではないのだが、回想シーンで連発されるカメラのパンなどはいかにもヒッチコックらしいものだ。物語はモンゴメリー・クリフトが関わるふたつの案件、弁護士殺しとアン・バクスターとの関係のくだりが、偶然すぎる結びつきを見せながら展開される。それはそれでいいのだが、アン・バクスターのくだりにひねりもなんにもないところがやや不甲斐ない。言いたくないんだけどすぐに大いにバラしてしまうし、バラしたところで大した変化が起こるわけでもない。クリフトとバクスターとバクスター夫の愛にまつわる描写に関してはかなりお粗末な印象だ。しかし見所である殺人に関してはクリフトの神父らしい佇まいと表情が映画を引き締めていた。『見知らぬ乗客』と同じロバート・バークスが撮影を担当しており、ショットの的確さみたいなものは両作品とも素晴らしいものがある。宗教を扱っているせいなのかシンメトリーを生かした構図が多数見られた。特に序盤の夜の街路の光と影が織りなすシンメトリーなショットは素晴らしかった。90点。

見知らぬ乗客

アルフレッド・ヒッチコック、1951。この映画のストーリーやテーマを説明しても、おもしろさは伝わらないだろう。この映画はヒッチコックらしい映像演出の映画だ。映画研究の題材の定番となっている冒頭のシーンから素晴らしい映像演出が見られる。ふたりの男が歩く靴がクロスカッティングされる。その動く方向などの対照が重要だ。そしてカメラは同じローポジションを保ったまま列車の先頭からのショットになる。ここで直線的に走っていた列車が分岐して右に折れる。この折れる方向も重要だ。そしてふたたび靴が映し出され、靴と靴がぶつかることではじめてファーリー・グレンジャーとロバート・ウォーカーが紹介されるのだ。こんなに鮮やかな導入部がありながら、映画は強力な映像演出を炸裂させまくる。殺しのサングラスやテニスの客、そしてなによりロバート・ウォーカーの佇まいの映像演出が素晴らしい。撮影は締りがあってとてもいいのだが、脚本はなんだかゆるい感じがするし、ロバート・ウォーカー以外の主な演者がいい仕事をしているとも思えない。ただこの映画は失敗しても平然としている凄腕映像マジシャンであるヒッチコックらしい映画であることは確かだ。そのらしさは他の欠点を凌駕しているとは思えないのだが、とにかく大いに楽しませてくれるのだ。ラストのメリーゴーランドなんて過剰サービスな感じで、あれはドン引きする人もいると思う。そういうことも平然とやってのけてる感じがしておもしろい。個人的には透明な密室で夫婦喧嘩をするシーンが素敵だった。95点。

ロープ

アルフレッド・ヒッチコック、1948。基本的には1本の映画をワンショットで撮るというヒッチコックの野心的なアイデアがあってこの映画は作られた。当然80分の出来事を80分の尺で撮ることになる。実際は物理的な都合でショットはカットされるのだが、明確なカットは3つだけだと思う。舞台劇をもとにしているからワンショット映画というわけなのだが、その野心的なスタイルも今となっては面白味に欠ける。ただヒッチコックの野心家っぷりが垣間見れる極端な一例であり、良し悪しは別として野心的な映画は見ていて嬉しくなるものがある。長回しといっても当然アンゲロプロス的なものではなく、やはり実際におもしろいのはカメラが遊び心を見せる場面だ。主観ショットのようになったり、オフフレームに人物を配置したままにしたり、人物の台詞に沿うように動くカメラワークがあったりすると、モンタージュがなくてもヒッチコックはヒッチコックなのだと痛感する。物語は「レオポルドとローブ」を下敷きにした密室劇なのだが、映画のスタイルの窮屈さによって登場人物も窮屈に描かれてしまっているような気がした。ワンショットによるリアリズムもなければ、ワンショットという不自由から生じる奇跡的な瞬間もない。ちなみにこれがヒッチコック初のカラー映画なのだが、なんだか撮影裏話のほうがおもしろそうな映画だった。『アメリカン・サイコ』のエリート感や『真夜中のパーティー』のLGBT的密度や『おとなのけんか』の密室劇を思い出したのだが、この映画はそれらに比べるとエナジーが足りないような気がする。90点。