黄金

ジョン・ヒューストン、1948。1920年代のメキシコ。職もなくうらぶれていた男ハンフリー・ボガートは、同じような境遇のティム・ホルトと共に金鉱堀りの話をするおっさん、ウォルター・ヒューストンの話に飛びつく。そして金を見つけるにつれ三人の関係が崩れていく。この映画は、ボガートが見せる人間の醜い部分の強烈さに尽きるだろう。最初っから善良な人物ではないのだが、金をつかむと精神に異常をきたしてしまう。それを演じるボガートの、常人さを残しつつ狂気が立ち現れる凄みは圧巻である。個人的にはこんなに怖いボガートを見たのは、ニコラス・レイの『孤独な場所で』以来のことだ。三人組で金を探す物語なのだが、三者三様のキャラクターでありながら、あからさまな類似や対照を見せないところが素晴らしい。どんな展開になるのか、誰が信じられるのか、誰がどうなってしまうのか、予測がつかない。結局ボガートは一直線に落ちていくのだが、その落下地点の描き方が秀逸だ。刺殺されるところも、死体すらも映さない死の演出は、風に舞って見えなくなる金との絶妙な類似が見て取れる。ボガートは精神的に狂っていく男で、ホルトはなにか背景がありそうな影のある男だ。ふたりとも陰と陽でいえば陰である。だから陽のウォルター・ヒューストンがひときわ冴え渡っていて、アカデミー助演男優賞受賞も納得の好演だった。95点。

ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション

クリストファー・マックァリー、2015。スパイ映画は物語設定が複雑になりがちなのだが、この映画も細かいところはわかりづらい。でもそこはハリウッドの娯楽大作らしく、見事に誰でも楽しめる映画に仕上がっている。序盤のオペラのシーンから、ヒッチコックの『知りすぎていた男』へのオマージュが炸裂するし、終盤では『三十九夜』のミスター・メモリーのようなことをトム・クルーズがやったりする。その他にもこの映画は往年のハリウッド映画のエッセンスが随所に散りばめられているのが特徴的だ。ヒロイン、レベッカ・ファーガソンのクラシカルな顔立ちは映画に気品を与えていたし、冒頭のレコード屋の女も端役ながら特異な存在感を放っていた。そしてコンピュータを駆使した作劇が多くあるものの、基本的にはカーチェイスや逃走や追跡が見せ場になっている。特にバイクシーンはトム・クルーズとレベッカ・ファーガソンと悪者たちが三つ巴でチェイスするものだから、さながらバイクレースを見ているようなエキサイティングなスリルがあった。サイモン・ペグとジェレミー・レナーは好演だったのだが、ヴィング・レイムスがイマイチだったのは、シリーズ物の宿命なのかもしれない。しかし全編通してダレることもなく一気に見られた。95点。

けんかえれじい

鈴木清順、1966。昭和10年の岡山。硬派な不良少年、高橋英樹は同居人に恋して喧嘩に明け暮れ、会津若松に飛ばされて、そこでも喧嘩に明け暮れる。バンカラロマン的な青春映画ではあるけれど、実際のところ戦争映画という色合いをかなり強く感じた。あとは西部劇の影響。喧嘩の舞台である山などの立体的な形状をうまく生かしている。清順だから撮影はかなり個性的だ。中距離のロングショットがやたらと多く、俯瞰ショットやローアングルを多用している。特に俯瞰ショットの使い方はとても奇妙なものもあるのだが効果的だ。段差のある人物の配置も多用され、浅野順子が道にいて男ふたりが壁の上にいて、それをロングショットで捉える夜のシーンなどは美しかった。他にもはしごや、肥溜めや、井戸や、山や、車など、立体的なシチュエーションがこれでもかと登場する。映画の調子は、高橋英樹が会津若松に行く前後から重たくなる。そしてヒロイン浅野順子が映画からいなくなる。その空白が、あの感動的な再会シーンを生んでいる。カメラがぐっとチルトダウンすると障子が破れて手が出てくる。なんと美しい演出なのだろう。浅野順子との再会からラストまでの映画のムードは非常に重たい。そして雪崩式に二・二六事件が起こり映画は終わる。脚本は新藤兼人なのだが、終盤は青春の終わりや平和の終わりが重たくのしかかってきた。95点。

偽りなき者

トマス・ヴィンターベア、2012。少女の何気ない嘘によって性的暴行の嫌疑をかけられ、村八分を食らう男の壮絶な生き様を描いた映画。ある程度濃厚な社会的集団に属している人たちにとってはリアルに恐ろしい話だろう。冤罪の被害者マッツ・ミケルセンにもなりうるし、それを村八分にする元仲間たちにもなりうる。この映画のおもしろいところは、マッツ・ミケルセンを加害者としてしか見ない人間にスポットを当てないところだ。幼稚園の園長などはその典型だろう。で、少女の父トマス・ボー・ラーセンなんかは、性的暴行を受けたとされる娘と、親友であったミケルセンとのあいだで苦悶することになる。トマス・ボー・ラーセンは主人公にもなりうる重要なキャストだった。このミケルセンとラーセンのラインは重要で、あとは仲間もいたりするのだが、物語はひたすらミケルセンをいじめ抜いていて、あたかも試しているように見える。ただミケルセンは冤罪を晴らすようなマネはしない。無罪であるから尊厳を持って日々生活したいだけなのだ。だから少女から真相を語らせようとも思わない。これは終盤でうまくいくようにも見える。しかしラストで曖昧にぼかされる。事件は過去なのか未来までつづくのか。気味の悪い映画は疑問を投げかけ気味の悪いまま終わるのだ。95点。

いとこ同志

クロード・シャブロル、1959。ほぼ全編色恋まみれの映画でここまで描くのだから、大した演出力だと感心した。もともとシャブロルはヌーヴェルヴァーグらしからぬ「普通さ」を持った監督で、『美しきセルジュ』に続くこの作品でも、撮影のアンリ・ドカエと共に、手堅く、老練とでもいいたくなるような演出力を随所に見せる。人物の移動に合わせて計算し尽くされたカメラワークは絶品である。例えばジェラール・ブランとジュリエット・メニエルがパーティーの喧騒から抜け出し外で話すシーン。一、二ヶ所、ヌーヴェルヴァーグっぽいカメラワークがあるのだが、それ以外は丁寧に作り込まれたショットがカットされていく。別のシーンでは、二回転するカメラや、ジャン=クロード・ブリアリとジェラール・ブランのドライブのシーンなどでは、ヌーヴェルヴァーグっぽさが散見されるのだが、奔放なショットやカットはそれくらいしか見せない。しかし、描かれる物語はとてもヌーヴェルヴァーグらしいものだ。無鉄砲な若者の映画であり、ドラマチックな展開は避けられ、大概パーティーをしているだけである。その世界の中心にいるのがブリアリで、彼の図抜けた存在感は様々な説明描写を不要にするほど圧倒的なものだった。その対照として描かれるブランの淡白さのようなものもある意味すごい。物語は単純なのだが、それ以外の部分は見るべきものの多い作品だった。95点。

傷だらけの栄光

ロバート・ワイズ、1956。ボクシングのミドル級世界チャンピオン、ロッキー・グラジアノが、チャンピオンになるまでを描いた伝記映画。ポール・ニューマンがロッキー・グラジアノを演じ、一躍注目を浴びることになった。『レイジング・ブル』はこの映画からかなりの影響を受けていると思われる。この映画はとてもテンポが早い。ポール・ニューマンの悪な性格や荒い所作など、こちらもかなり早い。この映画の成功は、映画の早さとポール・ニューマンの早さがピタリとハマったことが一因といえるだろう。この早さがバタバタとしないのは、妻のピア・アンジェリと母のアイリーン・ヘッカートに依るところが大きい。そのブレないキャラクターは文鎮のような役割を果たしていた。撮影も素晴らしい。多くのシーンでは長回しによる早い展開を生み出していたし、カットを割ればそれはそれで展開は早くなる。とにかくショットの選択が的確なのだ。暗いシーンが多いのだが、あからさまなライティングを多用している。しかしそれが一貫しているものだから、映画の見た目を構成する上で欠かせない要素になっている。撒き散らされたエピーソードを回収できていない部分は見られた。しかしポール・ニューマンの家族との関係は、最後の父とのシーンでしっかり描き切っている。邦題の通り、傷だらけの栄光なのだが、どこか軽いタッチで描かれており好感が持てた。95点。

死刑台のエレベーター

ルイ・マル、1957。社長夫人ジャンヌ・モローが、不倫相手の部下モーリス・ロネと社長暗殺を企て、見事完全犯罪を成し遂げたはずが、モーリス・ロネはエレベーターに閉じ込められ、ジャンヌ・モローは夜の街を徘徊することになる。この映画は一見すると車を盗んで人殺しをする若者ふたりのエピソードがどうにも邪魔なような気がしてしまう。ところが徐々にモローとロネと平行させながら対照あるいは類似させることによって、モローとロネの姿が一層引き立つ効果を生んでいることがわかる。クローズアップを多用するモローの夜の徘徊は被写界深度の浅いアンリ・ドカエの撮影によって孤独が夜から浮かび上がってくるようだし、ひとり密室スリラーを演じるロネは自由に動き回る若者たちと明確な対照をみせる。この映画の素晴らしさはサスペンス映画であるのに、スリルがあまり発動されないことだ。スリルよりも夜を彷徨うモローが描かれるべき映画であるし、夜が明けて一晩で老けたモローが映し出される映画であるのだ。それはラストにつながるふたつの要素を見ても明らかだ。これから老いていく日々に思いを馳せ、過去の停止した時間に思いを馳せるモローの姿がそこにはある。この映画は冒頭のスーパークローズアップからはじまるモローの時間=老いを描いた映画であるといえるだろう。95点。