日本一のホラ吹き男

古澤憲吾、1964。無責任シリーズの最初の二作が大好きなのだが、あちらの脚本を手がける田波靖男のようなブッ飛んだアナーキーさがこの映画にはない。笠原良三の脚本はかなり現実的だ。しかしそれをアナーキーに仕上げてしまうのが古澤憲吾の力量というものだろう。この映画は映像演出がすごい。特に会話のシーンでは無理やりイマジナリーラインをまたぎまくる。しかしそれをさほど意識させないのは、会話中の人物の移動や、カメラの移動、さらには唐突なローアングルのショットや、会話する部屋の外からのショットなどの撮影演出がてんこ盛りだからだ。それらがゴツゴツとしたうねりを生み出し会話シーンの緊張感を作っている。階段は映像演出としてのみならず、物語の上でも有効に作用している。どこもかしこも階段だらけで植木等の登場シーンも階段だ。しかし明らかなメタファーとして存在する階段ですら軽快に使われまくる。まるでヌーベルバーグのようなフットワークの軽さやチープな作劇は見ていて気持ちがいい。トリッキーなズームアップやズームアウトも印象的だ。物語としては突飛な役者の不在がもったいないような気がした。あの由利徹ですら去勢されたように演じている。この映画は馬鹿炸裂も描いてはいるのだが、やはりサラリーマン喜劇という枠を逸脱せずに描かれている。そのあたりはいま見ると物足りなさを感じてしまう。浜美枝との結婚へと至る唐突な展開はおなじみのものだが、「ニッポン無責任野郎」で見られた団令子との結婚のようなパンクすぎてお手上げという状態にはならない。映像演出は本当に素晴らしかった。95点。

きみはいい子

呉美保、2014。オムニバス形式のドラマ。この映画の主たる演者は、大人も子どももみんな子どもとして人物造形されている。そして子どもの子どもらしい部分を豪快にひけらかす。特に前半はガキの戯れに終始している。そして後半になって動的な展開になる。まず前半をくだらないと思いながらも真面目に見られたことは自分にとって大きな体験だった。集中力を維持したまま、自分にとってはつまらない物語を見つづけることができた。途中で見るのをやめてしまうと後悔することになるから、そこをクリアしたときにはうれしかった。苦行に耐えた僧侶のような気分だった。この映画にはいまや名脇役となった池脇千鶴が出ている。しかしこれほど冴えない池脇千鶴はめずらしい。無理のあるデフォルメされたキャラクターを演じるのに精一杯な上、見せ場で尾野真千子の抱えるフロイト的因果に基づく問題らしきものを即了解する離れ業を見せるなど酷使が目立った。高良健吾の裏のない笑顔や真顔はこの厳しい役にはピッタリだった。起伏のあるドラマを起伏なく演じることに成功している。ラストの高良健吾のダッシュはもうちょっと映画的なカタルシスを得られればよかった。ボケ老人と障害児童のパートは加部亜門の素晴らしい演技もあり引き締まっていた。だがこの映画は子どもが苦手な人は見ないほうがいいと思う。動物モノと子どもモノは極力避けているのだが、気づかずに見てしまった。ちょっと不細工だがいい映画だと思う。しかし映画の選択をまちがえた。90点。

アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場

ギャヴィン・フッド、2015。ドローン攻撃でテロリストをやっつけろっていうドラマ。この映画がおもしろくもありつまらなくもあるのは、当然ながらパンを売る少女をフィーチャーした点にある。あれだけパンを売る少女を描写するのだから物語の主人公は少女となる。ということはひとりの少女の命を守るのか、多数の犠牲を取るのかで逡巡するドラマという構造になる。それならばもっとスリリングに少女を描写できたのではないかという気がする。この映画はひとりの少女の命によって浮き彫りにされる組織の脆弱性や個人のエゴや正義や人道主義などが物語の軸となっている。でもとにかくあの少女ひとりにフォーカスしなければ話にならない。現実を見ればドローンの誤爆や正しい爆撃によって民間人が死んだなんてのはニュースにもならない日常茶飯事になっている。その現状とこの映画の乖離を考えると、スリリングに展開されるゲーム性の高い娯楽作品ととらえるべきだろう。ヘレン・ミレンたちの逡巡も、どちらかといえば承認するかしないかの駆け引きを楽しむサスペンスだ。この映画は少女の死のリスクを承知でテロリストを殺したことが正しかったのかは問わないし問われない。どちらもメッセージとしては陳腐だからだ。パンを売る少女のスリルと、承認の駆け引きのスリルが、ド派手な音楽とドローン映像によって引き立っている。しかし少女とヘレン・ミレンたちが政治や人道だけではなく、映画の構造として離れていても接近した関係みたいなものを見たかった。ドローン映像が決め手となると思ったのだがそこまでのものではなかった。90点。

Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち

ヴィム・ヴェンダース、2012。この映画はピナ・バウシュの人物像に迫るようなドキュメンタリーでもなければ、どんだけすごい舞踏家なのかを見せつけるようなドキュメンタリーでもない。ヴィム・ヴェンダースとピナ・バウシュのコラボ作品といった趣なのだが、ピナ・バウシュの突然の死によってそれもちがった形になっているのだろう。劇中ピナ・バウシュの登場は非常に少ない。「カフェ・ミュラー」という舞台で、バウシュの踊りが見られるのが幽霊みたいにすごい。その「カフェ・ミュラー」などあわせて4作品が映画で取り上げられている。この映画は3D映画として上映されている。そのことは重要だ。演技を舞台から屋外に出してしまうこともとても重要だ。そこには映画によって伝えることができるものが見事に提示されているのだ。この映画はいわゆる映画の嘘も大いに活用している。カットされる瞬間に人物が変わっていたり、本番の舞台と撮影用の演技をカッティングによって横断しまくる。カットのきっかけはすべて身体の動きだ。バウシュの声は一切出てこない。そのうえ演者たちの同録の台詞も皆無だ。すべてはナレーションによって語られ映像と切り離される。ナレーションではバウシュのことは語られるが、それも決して多くはない。この映画は4つの作品を基調としている。その舞台にはあまり興味が湧かなかったのだが、それでもこの映画が素晴らしいと思えたのは、映画が映画であろうとする姿を見た気がしたことや、ヴェンダースのバウシュに対するアプローチの素晴らしさがあったからだろう。95点。

リダクテッド 真実の価値

ブライアン・デ・パルマ、2007。イラク戦争においてイラク人レイプはかなり横行していて、この映画はそのひとつの事件を取り上げ、前後をフィクションとし、それをフェイクドキュメンタリー形式で撮影したものだ。兵士の持つカメラ、現地リポーターのカメラ、監視カメラ、ネット動画などが素材として使われている。この映画の功績はこれまで見たイラク戦争モノのなかでもかなり近い位置にカメラがあると思わせたことにあるだろう。この不快なビデオを見ていると本当に気分が悪くなるしムカついてくる。ただそれは既視感にあふれたアメリカの姿でもある。この映画における既視感というものは素人撮影や監視カメラの既視感と、それらによって描かれるアメリカそのもの既視感が同居したものだ。それを同居させているのもまた演出なのだ。ある意味予定調和な世界観やメッセージが撮影技法によって引き立っている。終盤のフェイクな感じは撮影技法と演出技法が見事に調和している。とにかく時代は戦争にカメラが入ることが当たり前になってしまったことをこの映画は教えてくれる。アメリカの既視感については本質的に戦争を描くことはなく、個人の資質の問題として描かれている。個人の資質を問うならば、もっと見やすい映像で見たかったという気はする。カメラの位置取りについてはすごく接近した気がするのだが、ドキュメンタリー技法によって良くも悪くも人物描写が雑になっている。いまはこの映画では描かれなかったスマホの時代だ。スマホがメインで優れた撮影技法の映画には出くわしたことがない。この映画を平気で飛び越えるような革新的な映画が見てみたい。95点。

サブウェイ123 激突

トニー・スコット、2009。既視感がありすぎて、かといってこの映画ならではの部分はつまらなくて、でも娯楽映画としてはまあまあ良かった。ジョン・タトゥーロ警部補とジェームズ・ガンドルフィーニNY市長がちゃんと仕事してくれるのはありがたかった。とりわけタトゥーロの助演は素晴らしかった。でも犯人ジョン・トラヴォルタがデンゼル・ワシントンのことを溺愛しちゃっている感じは実際に会ってもそういう感じがあって、バックグラウンドなどでの共感とかいろいろあるんだろうけど気持ちが悪かった。緊張感バリバリで進んでくれるのだが、終盤デンゼル・ワシントンが司令室をはなれてからがもたつく。カーチェイスを楽しもうとかそういう趣旨なんだろうけれどもたつく。あとは美しい女優でもいればもっと楽しめたような気がする。全体的に見るとどきどきワクワクして楽しむ映画だからそれでいいのだが、これって3日くらい前に見た映画なんじゃないかという既視感が邪魔をして自分が痴呆症のような気になってくる。ただ「水戸黄門」だって「ドラえもん」だって既視感バリバリなのだから娯楽に既視感はあってもいいのかもしれない。犯人たちの経歴やワシントンの経歴が、ちがいの部分なんだろうけど、練りに練った脚本ではなく単純明快で残念だった。邦題の「激突」ってなんなんだろう。90点。

ニーチェの馬

タル・ベーラ、フラニツキー・アーグネシュ、2011。馬とニーチェの逸話をもとにした物語。まず圧倒的な馬と農夫の長回しが描かれる。そして農夫の娘との生活が描かれてゆく。そこにはわずかな出来事はあれど、たんなる生活である。それが反復と差異を用いることで見事な美的空間として演出されている。カメラがとても素晴らしい。基本的に長回しは好きなのだが、この映画の長回しは本当に見事だ。そして反復と差異によってこの映画のほとんどすべてが作られている。カメラも音も反復と差異の繰り返しだ。水を汲みに行くショットの鮮やかさが印象的だ。ただひとつ反復されないのが冒頭の農夫と馬のシーンだ。それはもちろん示唆的にそう描かれていて、馬は飯も食わないし水も飲まない。馬の役割がはっきりするのが終盤だろう。馬を農夫たちを平行して描きながら類似性を徐々に提示し、飯を食わないという決定的な類似が起こる。それによってこの寡黙な農夫と娘の状況というものが馬を通してあらわされる。馬と農夫は、その平行性と類似ゆえに冒頭のシーンが反復されることはないのだ。娘の生活のリズムがこの映画のリズムとなっている。そのリズムも長回しのなかで見事に演出されている。そもそも二時間半超えの映画なんて嫌いだし、非エンタテインメント系で、モノクロで台詞が少なくて、とても見たくないタイプの映画なのだが、音と映像の反復と差異が素晴らしく、短く感じることはなかったが、長く感じることもなかった。『倫敦から来た男』は苦手だったのだが、評価が一変した。100点。