リピーテッド

ローワン・ジョフィ、2014。この映画のニコール・キッドマンは一晩寝ると記憶がなくなる。覚えていないわけだから、毎日同じことを反復する。偏屈な監督であれば同じショットを嫌がらせのように反復させることで映画を形作ってゆくだろう。しかしローワン・ジョフィは反復を意識させながらも差異によって反復の執拗さを緩和している。この映画は反復の映画といってもいい。映画は一日のはじまりを提示してから二週間前にフラッシュバックする。そしてふたたび冒頭の一日が反復される。そしてその一日は、ニコール・キッドマンが記憶障害となった日と類似した反復を見せる。それはコリン・ファースが反復を停止したいがために反復するのだ。しかし結局ニコール・キッドマンは結婚生活を反復させることになる。そのようにして様々な出来事や映像が類似した反復を見せながら進行する。ただ物語としては面白味に欠ける。前半は怪しい人間がふたり登場し、どちらが怪しいのか比較検討するだけの映画になっている。つまり怪しさを演出しすぎているのだ。後半は事実が明らかになってゆくのだが説明がうまいとは言えない。最後のご本人登場における旦那は明らかに浮いてしまっており、ここでの沈黙が次の息子との対面における会話を強調する役割をになっているのだが、その演出は失敗に終わっている。いろんな意味で謎の多い映画なのだが、最大の謎はニコール・キッドマンとコリン・ファースというスターの共演だろう。そして興行収入が製作費を下回ったことは謎が解けたかのように合点がいった。90点。

フィラデルフィア物語

ジョージ・キューカー、1940。映画というものは脚本からスタートするものだと思っていて、その前に原作となる小説や漫画や舞台劇などがあろうとなかろうと知ったこっちゃない。だから、脚本からスタートするのに脚本以前をほのめかすような映画はあまり好きではない。そういう意味でいえば、この映画は脚本以前に舞台劇が存在することをあえて前面に押し出しており、したがって映画の作り方も舞台劇に近いものになっている。そのためこの映画はブロードウェイ舞台の拡散でしかないように思える。悪くいえば舞台劇の宣伝映画や便乗商法に成り下がっているのだ。物語はとてもおもしろい。もう一度見たらもっとおもしろいだろう。それくらいキャラクターの細かな設定がちゃんと効いている。キャサリン・ヘプバーン、ケイリー・グラント、ジェームズ・スチュワートという大スター夢の共演も楽しめるし、監督のジョージ・キューカーも舞台劇のようではあるがマトモな仕事はしている。この映画はアカデミー賞で脚本賞とジェームズ・スチュワートが主演男優賞を獲得している。ここにもケチをつけたくなるのだが、この優れたフィリップ・バリーによる戯曲を脚本化するのはそれほど難しいものだとは思えない。そしてこの映画のジェームズ・スチュワートはそれほどでもないように思えたし、舞台版もこなしたキャサリン・ヘプバーンこそ主演女優賞にふさわしい演技をしていたと思う。この映画はみながいい仕事をしているし、特に際立つものもあるのだが、それら相乗効果をもたらしていないことはとてももったいない気がした。90点。

緑の光線

エリック・ロメール、1985。ロメールのファンの多くにとってこの映画は特別なものだ。ロメールといえばインプロビゼーションというイメージがあるのだが、実際のところ狭義のインプロビゼーション映画というのは意外と少なく、この映画はまさにそれに当てはまる。「ヴァカンスにさすらう孤独な女」という主題とマリー・リヴィエール主演という設定だけで、脚本もなしにこの映画は撮影に入っている。そんななかであのリヴィエールのキャラクターが浮き彫りになってゆくのだ。繊細なロマンチストで現実逃避型であり情緒不安定ですぐ泣く。それなりに友人はいるのだがそれなりであり、理想主義や潔癖な性格が災いして男を望みながらも結局は避けつづけている。そんな逃避して孤独になってゆくヒステリックなベジタリアンという重くて扱いづらい女リヴィエールをロメールは見事に軽快に撮ってみせる。この映画は「喜劇と格言劇」シリーズの5作目であり、ランボーの詩の引用ではじまり、ジュール・ヴェルヌの小説「緑の光線」をモチーフにしながら進行する。ロメールが言うところの「契機」が印象的だ。緑に囲まれた柵のあるシーンの風と、山で雪をさわるリヴィエールと、階段を降り続けてたどり着く海の潮騒。そしてラストの緑の光線。不可解な女リヴィエールにシンパシーを抱くどころか、完全にリヴィエールと同期するという奇跡的な瞬間が訪れるときに感じるロメールのありがたさ。こんな女を放っておかずに追いつづけてくれてありがとうと思った。それにしても超自主映画的な撮影スタイルから感じるスリルとフットワークの軽さは気持ちがよかった。100点。

ファンタスティック・プラネット

ルネ・ラルー、1973。特異な世界観が映画全体を貫いている。それは端的にいえばローラン・トポールの作画であり、アラン・ゴラゲールの音楽である。音楽はいま聴くとちょっと古めかしくもあるのだが、サイケやプログレな感じは映像との相性もよかった。人間と巨大宇宙人がいる世界という設定で、人間のナレーションが入る。当然人間視点の映画だと想像するとそうでもないことがわかる。その象徴がスーパーロングショットによる人間の撮影だ。人間たちはアリのようにしか見えないのだが、やたらとこれを多用する。スーパーロングショットは巨大宇宙人の目線とほぼ等しい。宇宙人は宇宙人なりに凝った動きも演出されるのだが、人間は人間なりの凝った動きがあまり演出されない。スーパーロングショットによるアリの大群のような動きがあり、大昔の横スクロールのテレビゲームのような単調な動きもある。アップになると完全に宗教画のようになってしまう。つまりこの映画は人間と宇宙人の映画なのだが、アリのような人間と、人間のような宇宙人の映画になっているのだ。物語は人間に重きを置いて語られるのだが、ショットの構成をかなり宇宙人寄りにすることで、巨大宇宙人と戦う人間というありがちな映画の構図を破壊しているのだ。物語としてはかなりテキトーな部分もあるし、人間が中心となる後半はキリスト教的受難をイメージさせたりして失速気味になる。それでもこの映画を決定づけているのはあくまで映像と音楽の世界観であり、その世界観は短い映画をとおして飽きることがなかった。短い映画としては素晴らしく強烈で特異で奇妙な映画だった。95点。

疑惑の影

アルフレッド・ヒッチコック、1942。ヒッチコック映画は大概舞台が移動するのだが、この映画はまったく逆で、カルフォルニア州サンタ・ローザにある中の上クラスの一家が住む家が舞台になっている。テレサ・ライトが住む平凡な家に叔父のジョセフ・コットンがあらわれることで状況が変化する。ジョセフ・コットンはどす黒い煙を吐く列車とともに到来する。この異常な煙は悪魔の到来を意味するのだが、家族が悪魔によって崩壊してゆくという展開にはならない。平凡な家族はそのままに、ジョセフ・コットンとテレサ・ライトの主に心理戦がスリリングに展開されるのだ。個人的にはテレサ・ライトは『若草の頃』におけるジュディ・ガーランドに近い。家族命でありサンタ・ローザ命という感じだ。それに対してジョセフ・コットンは部外者であり悪党として描かれるだけである。悪党に惹かれる善人というのはよくあるパターンで、このふたりもはじめは愛し合っている。しかしコットン到来後しばらくしてライトは悪党がモノホンだと知り反撥する。そのあたりの心理や行動が見事な脚本や映像によって演出されている。家族想いのライトは警察に情報を垂れ込んだりはしない。ただコットンに消えてほしいだけなのだ。だから家を舞台にしているのにふたり以外はいたって平静であり、それがスリルを助長させている。刑事の活躍とロマンスの不甲斐なさや、悪党すぎるコットン演出はどうかと思う。しかし要所で見られる俯瞰ショットによる孤立の演出や、不安を煽る斜めの構図や、長い食卓シーンの巧妙な演出などは、効果的で見ていて飽きなかった。あとはテレサ・ライトがすごくよかった。95点。

大冒険

古澤憲吾、1965。ドタバタ喜劇。植木等はよく運動しているのだが、キートンのような超人的な驚異はまるでない。アクションにともなうスリルという意味では、ヒッチコックの爪の垢を煎じて飲んでほしいと思わせるほど凡庸な映画になっている。実際、植木等はヒッチコック映画の知りすぎた男のようでもあり、警察と闇の組織に追われるという設定はヒッチコックの影響が少なからずあると思う。しかしそれは設定だけで終わってしまい、脚本以降のどこかでドタバタ喜劇に決め込んだ印象がある。植木等ではひたすらつづくドタバタを二時間近く持たせられない。それは植木等の適正の問題であり監督の手腕の問題だと思う。スリルをあまり演出できておらず、ドタバタドタバタと潜水艦までいたる流れはどこを削っても問題ないと思わせるだけの無駄がある。ラストの潜水艦こそ喜劇役者の出番だと思ったのだが、ここでヒトラーをはじめみんな喜劇を真面目にやってしまう。喜劇人で固められた闇の組織なんて想像しただけでわくわくするのだが、例えば由利徹なんかは検問所の警察官として登場するだけなのだ。ショットのつながりは見ていておもしろかった。イマジナリーラインを土足で踏み越える大胆さがあるのだが、映画自体にはその大胆さがなかった。つまらない映画だとは思わない。ただもっと良くなる要素が多すぎるから見ていてだらけてしまった。上映時間106分というのはドタバタ喜劇としても古澤映画としても長いほうだと思う。それなりに予算も使っているようにも見える。しかし長さと予算の相性はあまりよくない。90点。

逃走迷路

アルフレッド・ヒッチコック、1942。ヒッチコックを順番に見ているのだが、もうすでに飽き飽きしてきたパターンの映画だ。知りすぎていた男が女を連れていろんなところへ逃亡する。そのなかでヒッチコックのアイデアが過剰サービスのように炸裂するのだ。そしてとんでもない見せ場がある。ラストの映画館と自由の女神は凄まじかったし、オープニングの黒い煙もすごかった。しかしこの映画はアイデアが消化不良のまま放置されすぎているような印象を受けた。そうした傾向はヒッチコック映画には往々にしてあるものなのだが、この映画はそれが多すぎた。時代を考えるとプロパガンダの影響だと思うのだが、人道主義的なシーンが多く見られる。それらはとても説明的でいかにもプロパガンダな感じで奇妙な違和感があった。素晴らしい映画館での銃撃戦を見て、この映画を映画館で見た人がうらやましくなった。このシーンは映画館で見ないとその効果を十分に堪能できないからだ。そして有名な自由の女神のシーン。このシーンはほとんどすべてのショットが素晴らしいのだが、一番素晴らしかったのは、破れつつある袖の超クローズアップから、自由の女神を下から超ロングショットであおるカット割だ。中間距離を排することによって、袖の糸から自由の女神へ、最小から最大へカットされたときの驚きは、まさにヒッチコック的演出であり、その演出効果は撮影技法によって見事に最大化されている。モノクロ映像は締まりがあってとてもよかった。ヒロインはいるのだが、役割もロマンスもテキトーだった。90点。