殺したい女

デヴィッド・ザッカー、ジェリー・ザッカー、ジム・エイブラハムズ、1986。幼馴染のジム・エイブラハムズとザッカー兄弟による、いわゆるZAZ作品。青春映画でもないのにこれぞ80年代という雰囲気が映画に充満している。とにかく素敵だったのがヘレン・スレイターだ。80年代のにおいがプンプンする可愛らしさや、育ちの良さ丸出しのすれていない演技を見ているだけで、アイドル映画として十分に満足できるものだった。映画の登場人物たちは70年代的なのだが、音楽や色使いなど空気は思いっきり80年代になっており、それがこの映画をほどよく軽薄なものにしていた。悪事と悪人の分離がこの映画をおもしろくしている。ただ善人も悪人も間抜けなことでは一貫しており、おぞましくもキュートですべてが間抜けな世界が見る者の笑いを誘う。ただ喜劇人っぽいのはダニー・デヴィートだけであり、他の人物にはもっとキレのある演出でおもしろおかしく見せてほしかった。ダニー・デヴィートの愛人や警察署長はもっと醜態を晒したほうがいいと思ったし、ベット・ミドラーはもっとおばちゃんパワー炸裂したほうがいい。電話の使われ方は見事に映画を活気づけていた。脚本にも難があるといえばあるような気はする。でも殺そうとした妻が誘拐されるというあらすじのおもしろさでこの映画はほぼ決まりという感じがした。とにかくこの映画は菓子でも食いながら気軽に見られる娯楽映画だから楽しまなければ損というものだろう。ZAZ作品はもう少し見てみようと思った。90点。

知りすぎていた男

アルフレッド・ヒッチコック、1956。1934年の『暗殺者の家』を自らリメイク。この映画はモロッコとイギリスを舞台としているのだが、舞台によって映画のテイストがかなり異なっている。スクリーン・プロセスを多用しているせいか、モロッコの異質な空間にはちょっと驚かされた。見ているときにはスクリーン・プロセスが邪魔だったのだが、あとから考えればスクリーン・プロセスこそがモロッコを決定づける効果的な演出となっていたように思う。それに比べると、イギリスは普通に撮られているからずいぶん落ち着いた印象がある。ジェームズ・スチュアートとドリス・デイも、息子を誘拐されたままなのだが、家に帰って一安心といったムードが漂ってしまっている。見せ場はアルバート・ホールでのコンサートシーンなのだが、オリジナルを最近見たせいかスリル満点とはいかなかった。でもこのシーンは相変わらず素晴らしいものだった。で、次の見せ場として大使館でのドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」となるわけなのだが、このシーンがとてつもなく長く感じてしまった。この映画でもヒッチコックらしい様々な映画技法が炸裂しているのだが、アルバート・ホールでは音楽を利用しているのに対して、大使館のシーンでは音楽に利用されているような印象が残った。大使館のシーンで映画が終わっていたら退屈な映画だと思ったかもしれない。でもラストは品の良さと投げやりさを兼ね備えた見事なものだ。最後まで楽しませてくれるサービス精神旺盛な感じはヒッチコックらしい。もやもやした物足りなさは美人女優がいないからだろう。90点。

6才のボクが、大人になるまで。

リチャード・リンクレイター、2014。2004年の『ビフォア・サンセット』では、80分間の出来事がそのまま80分間の映画になっている。それに対してこの映画は、12年間の出来事を12年間かけて撮影するというものだ。映画のスタイルを考えると12年かけて撮影しなければならないものだと感じさせる説得力がある。出来事を羅列してゆくそのスタイルにおいて12年にわたる撮影は見事に効果を発揮している。単純なシーンチェンジで年月が経過し、その取り上げた時間に特別なことが起こるわけでもなかったりする。脇の登場人物はシーンが変わると消えたりする。ドラマチックな描写は排除され、ただときが流れるように映画も流れてゆく。この演出スタイルは原題である『少年期』の記憶に近いものがある。この映画は6才の少年が大人になるまでを描いた映画ではなく、少年が親元を離れるまでのまさに少年期を描いた時間の映画なのだ。そこで見えてくるのは少年の成長よりも、少年目線の様々なアメリカの大人たちである。少年目線であるからこそ大人たちの厄介な諸事情に深入りすることはないし、少年自身の体験も時間があっさり消し去ったりする。出来事の羅列には少年たちの加齢をともなう。そこで見えてくるのはやはり時間なのだ。『パリ、テキサス』のロケ地が使われたりしているのだが、共通点があるように思えた。時間と空間にまつわるロードムービーという視点、崩壊した家族というアメリカの風景、そしてなにより未来を託される少年。『パリ、テキサス』のような特別な映画にはならなかったし、長い映画は嫌いなのだが存分に楽しめた。95点。

ラ・ジュテ

クリス・マルケル、1962。異色の短編映画。映像が動画ではなく静止画によって構成されている。短編映画を普段あまり見ないから物足りなさはあるのだが、その鮮烈なイメージを維持させるのに30分というのは適切だったように思う。この映画は過去にとらわれた男を主人公にしたSFラブロマンスのような形式になっている。動画が過去を大量生産することでしか成り立たないという軽薄さやはかなさは映画が誕生してからずっと持たれてきた感覚である。この映画はその過去の大量生産を阻止している。動画という見えもしない瞬間によってではなく、静止画という瞬間の持続によって見える映画をつくることに成功している。1/24秒の静止画が数秒まで持続することで、はじめて瞬間を凝視することができるのだ。だが結局のところ、素早いカット割りでエモーションはつくりだされているし、唯一動画となる女の映像にはなんの深みも感じられなかった。この映画の最大の強みはナレーションと白黒写真だけで構成され、一切のムダもなく30分であっさりと終わることだろう。それらの構成要素の凝縮がタイトでソリッドで窮屈な空間と瞬間をつくりだしている。それは映画体験として一般的な映画とは異なるものだ。この映画は映画が好きな人なら誰もが体験すべき映画だろう。上映時間も30分だから簡単に見られる。そしてこの映画を見ると一般的な映画がものすごく見たくなる。映画とべったり寄り添いながらもアート的な飛躍をしているあたり、さすがヌーヴェルヴァーグ界隈という印象があった。95点。

倫敦から来た男

タル・ベーラ、フラニツキー・アーグネシュ、2007。音楽でいえばアンビエントにインダストリアルをまぶした感じとでもいえばいいだろうか。どちらの音楽もまるでわからないから、この映画もまるでわからなかった。ゆっくりとした長回しは例えばロシアの長回しの名手のような驚きはまるでなく、カットしてつまんでしまえと思ってしまった。ただこの映画にとって時間というものはとても重要で、その時間は劇場で見る時間として認識するのが正しいと思う。それに窓が大量に登場するのだが、これは劇場におけるスクリーンの役割を果たしている。だからテレビでは自分の時間と映画の時間を合わせるのは困難だし、窓とテレビ画面の関係は窓とスクリーンに比べると格段に落ちる。映像と音声を分けて構築するやり方もハマっていなかった。アテレコやアフレコの不自然さは意図的なのか無頓着なのかまるでわからない。眠りを誘うようなカメラワークと音楽があって、では物語はといえば、こちらもかなり反物語的なものになっている。夜霧や波止場や船や列車や窓や路地や小屋や謎の男や殺人事件や大金など、極めて映画的なモチーフを使いながらも潔癖症のように物語映画になることを避けている。タル・ベーラは他の作品も見たいと思っているのだが、この映画だけ見た印象では、極端さが中途半端であるように思えた。そしてそれが最大の欠点になっている。いずれにせよお気軽に見られる映画ではなかった。90点。

不完全なふたり

諏訪敦彦、2005。ふたりでいることの難しさ、ひとりでいることの孤独。そうしたものがこの映画では台詞やドラマチックな演出ではなく、ふたりにただじっと寄り添いながら言葉少なに語られてゆく。固定カメラによる長回しがこの映画の基本スタイルである。しかしこの撮影技法が最も有効に機能するのは、基本スタイルが破られたときだ。手持ちの超クローズアップや、会話におけるカットバック、時間経過を省略する編集などは、基本スタイルがあるからこそ強調されることになる。それが演出として見事にハマっている。映画はホテルの部屋の構造を巧みに利用している。離婚しようとする夫婦は簡易ベッドを用意してもらい別々の部屋で寝る。その部屋を隔てるのがおそらくロダンの「地獄の門」をモチーフとした扉である。扉は開かれたり閉じられたり半開きになったりする。夫婦の状況も扉を介して語られてゆく。ヴァレリア・ブルーニ・テデスキが部屋を変えると扉はなくなる。ベッドもひとつになる。ふたりの関係にも変化が起こる。ここでもロダンの「永遠の偶像」がモチーフとして使われている。「永遠の偶像」はテデスキがロダン美術館で見ていたものだ。ガイドの説明は「天国も地獄も近くて遠い」みたいなことを言う。ふたりが「永遠の偶像」を演じているとき、ふたりの状況は幸福でも不幸でもない。この関係性を見事に作り上げる手腕には脱帽するしかない。そしてラストで見せる優しさ。この映画は人物に対する優しい眼差しに満ちている。撮影スタイルの都合上、一見冷淡に見えるのだが常に優しいのだ。退屈すぎる長回しもあるにはあったが素晴らしい映画だった。95点。

トゥー・ラバーズ

ジェームズ・グレイ、2008。ジェームズ・グレイの映画にはとことん弱い。この映画も例外ではなくとことん弱い映画だった。イカれた男女の恋物語なのだが、いつものようにエレガントな演出技法や撮影技法が冴え渡っている。色の使い方が素晴らしくて、特に屋上の青が印象的だ。アパートの中庭越しの『裏窓』のような設定があるのだが、ここでは『裏窓』と同様にカメラはホアキン・フェニックスの視線から逸脱することはない。二組の男女が登場するのだが、その類似と対照はこの映画を決定づける要素となっている。ホアキン・フェニックスはふたりの女性に愛の告白をする。しかし本当に愛しているのはグウィネス・パルトローであることは明白なのだ。それは台詞で説明されるわけではなく、演出によって明確に示唆される。オペラ音楽や着信音が常にパルトローの影響下にあるフェニックスを映し出し、一方のヴィネッサ・ショウはその登場シーン以外において影響を及ぼすことはない。終盤に訪れるジェームズ・グレイらしい宿命的な別れのシーン。ここではじめて中庭が効果的に使われている。緑の照明も効いており素晴らしいシーンだ。グウィネス・パルトローのつかまえられない感じがバリバリに漂う存在感は、裏窓片乳効果も相まって見事なものだった。ラストは、イカれた女は愛を勝ち取り、イカれた男も愛を勝ち取る。ここにも類似と対照が見て取れる。映画全体を貫くエレガントでテクニカルな演出は見ていてまったく飽きることがなかった。100点。