ウイークエンド

ジャン=リュック・ゴダール、1967。60年代ゴダールと商業映画との関係はこの映画で終わった。しかし、この映画にはゴダールの新たなる原点回帰と社会風刺コメディが見事に融合しており、ラディカルでありながらキュートな作品になっている。ゴダールらしく音の使い方のセンスは抜群だ。この映画では映像もあまり物を語ることはなく自由になっている。つまりこの映画は商業映画から政治映画への移行期にできてしまった怪物的映画だともいえる。序盤の大渋滞ギャグなんて予算がなきゃできない。燃える車と死体の美しさはゴダールが作った画といってもいいだろう。ただ全編に渡ってゴダールのセンスが炸裂しているとも思えない。後半はゴダールらしく政治的で退屈な側面もあるのだが、それを差し引いても十分に面白い。農家の中庭でモーツアルトが流れる回転ショットあるいは逆回転ショットは、非常に長く美しいときの流れを感じることができる。ギャグになっていないギャグが満載なのもいい感じだ。親指太郎とエミリー・ブロンテも登場するし、「雨月」とクレジットされ船を漕ぐ水戸光子みたいなお遊びショットもある。ミレーユ・ダルクのエルメスへの執着と夫ジャン・ヤンヌの肉を食らうシーンもバカバカしい。それでもやはり強烈だったのは親の偽装事故を含めた車の使い方だ。車は最初からオモチャとして登場し、現代社会の物質主義の愚かな側面を強調しながら描かれている。ジャン=ピエール・レオのいた?原っぱも素敵なロケーションだった。車が転がっていて、豚に追いかけられたりしてとてもよかった。こんなラディカルな商業映画にはあまりお目にかかれない。100点。

天国の口、終りの楽園。

アルフォンソ・キュアロン、2001。ドキュメンタリーなカメラ演出にゴダール的な音響としてのナレーションが重なる。そして描かれているのはセックスにまみれた青春と、ところどころに散りばめられたメキシコの現実である。他の音を下げて繰り出される硬質なナレーションと、コンティニュイティ編集から逸脱したドキュメンタリーな撮影スタイルは、見る者と対象とのあいだに距離を生んでいる。カメラのために作劇がなされるわけではなく、出来事をカメラが捉えているという印象を与え、同時にカメラの前では情報不足であるものをナレーションが補う。まさにドキュメンタリー的な手法だ。行きずりのセックスはすぐに終わる。友情は脆くも崩れる。青春を謳歌するはずが、青春ゆえに謳歌できないハメになる。それらすべての青春が奔放な性描写と下劣なセックストークを通して語られてゆく。最初は意気揚々と天国の口へと向かうガエル・ガルシア・ベルナルとディエゴ・ルナ。もうひとりの女マリベル・ベルドゥの奔放な振る舞いもあり、ふたりはどんどん丸裸になる。その過程を描いた片道ロード・ムービーとなっている。丸裸の男ふたりで帰郷する帰路は当然描かれない。帰路の車を空撮でもしてエンドクレジットを入れておけば美しき青春の一ページにはなっただろう。しかしそれさえ許さない。ふたり数年後に会い、テキトーなトークとマリベル・ベルドゥの死が語られる。そしてナレーションは、ふたりが二度と会うことはない、と語る。この突き放し方はカメラとナレーションが一貫して取り続けてきたスタンスなのだ。この距離感が映画を素晴らしいものにしていた。100点。

岸辺の旅

黒沢清、2015。見なくても別によかったなという印象。逆に言えばなぜこの映画を見たのかよくわからない。死んだ浅野忠信と生きてる深津絵里による死者巡りの旅。生者と死者の魂の交感。旅をしながら生者と死者の親睦会のような物語。ホラーを排したホラー設定があり、スピリチュアル・ヴァイブスを匂わせながらもそっち方面には進まない。生きるとはなにか、死とはなにか、ということに縛られがちなところを、解きほぐしてゆくような良いゆるさのある映画だ。悪い人はおらずいい人ばかりが登場する。映像演出はらしいものが見られる。風景描写が素晴らしく、自然は生と死を超越、あるいは媒介する存在としてほのめかされるに十分な強度を持っていた。小松政夫の死人っぷりが見事だ。見事な演出もあり、あれを一番最初に持ってくるものだから、そのあとの死者の尻すぼみ感がハンパない。そもそもこの映画、脚本が上手く行っているのだろうかという疑問はある。特に先生として浅野忠信が授業を行うくだりは、浅野忠信が言いたいこと言っちゃいます、映画のメッセージを補完してます、というようなシーンに成り下がっている。そんなだから病院における深津絵里と蒼井優のワンオンワンと、緊張感みなぎる切り返しがこの映画のハイライトになってしまった。この映画は深津絵里の起き抜けのシーンが度々ある。しかし後半になるとなくなってしまう。終盤で一発起き抜けてもらって都市に戻してほしかった。でないと浅野忠信の引っ掻き回し映画になってしまうからだ。表現したいことは分かるのだが、胸にぐさりときたり、じんわりとこない映画だった。90点。

裁かれるは善人のみ

アンドレイ・ズビャギンツェフ、2014。ロシア映画史、端的にはレンフィルム的なものを期待して見たのだが、演出技法も撮影技法もかなりモダンであり、ハリウッドとのちがいをあまり感じなくらいだった。しかし物語はロシアならではのものになっている。この映画は旧約聖書のヨブ記とそこに登場するリヴァイアサンが主なモチーフとなっている。ヨブ記は神がヨブの信仰を試すために苦難まみれにしてゆくような話だ。そのヨブ記に登場するのが海中の怪物リヴァイアサンで、この映画にも登場する。ホッブズでもおなじみのリヴァイアサンだが、ホッブズは国家のことをリヴァイアサン、怪物であるという。で、この映画はロシア正教とロシア国家という怪物によってメッタメタにされる男の、家族や家や土地の喪失が描かれている。この脚本の面白さは、最初にトピックとしてあらわれる立ち退き訴訟の案件が、かなりの振り幅をもって大胆に収束してゆくところだろう。情事が発火点となり、女の謎の死があり、男の謎の逮捕があり、息子の謎の引き取りがあるのだ。国家権力の仕組んだ罠だという描写はないのだが、明らかにほのめかしている。残念だったのは中盤までの停滞ムードだ。この映画は二時間半くらいある。中盤までの停滞ぶりを見ると長尺が必要だったとは思えない。決定的な瞬間を敢えて描かない演出も、それ自体は面白いのだが、映像を退屈にしていたともいえる。ロシア国民の受難を描いた映像作品はゴマンとある。だから家の跡地に協会が建とうが驚きはない。ただ家族の離散の流れと、そこにほのめかされる国家権力の描かれ方は素晴らしいものがあった。90点。

ジャコ万と鉄

深作欣二、1964。この映画は1949年の谷口千吉監督作のリメイクである。オリジナルを見ていないのだが、脚本のクレジットが黒澤明と谷口千吉となっており、脚色のクレジットもないことから、オリジナル脚本を元に撮られたと思われる。漁場を舞台に繰り広げられる西部劇みたいな物語だ。そのせいもあり、高倉健と丹波哲郎の役柄には圧倒的な自我があり見ていて新鮮だった。ふたりは対照的なのだが類似も見られる。その関係性の描かれ方が秀逸だ。馬車ですれ違う高倉健と高千穂ひづるの反復が面白い。高千穂ひづるは、特に前半において奇抜なキャラクターを素敵に演じていた。際立っていたのは漁夫たちの宿だ。そこでは宴会があり高倉健が踊り、丹波哲郎との決闘があったりする。漁夫たちのストライキも起こる。漁夫たちの存在は映像に活気を与えており素晴らしかった。丹波哲郎の寝床の位置もいい感じだ。そして、ニシン漁の時間が海の映像を決定づけている。明け方なのかわからないが、夜に漁があるから映像は暗めで松明から炎が燃え上がる。この暗めの海の映像と、馬車での雪の明るい映像の対照も有効に機能していた。キャストも素晴らしく山形勲の豪快さと空虚さや、ただひとり死にゆく江原真二郎は当然効いていたし、浦辺粂子や大坂志郎や南田洋子も、漁夫たちの男臭さを緩和する良いアクセントとなっていた。ラストでも高倉健と丹波哲郎は対照や類似を見せながら漁場を去ってゆく。高倉健もカッコいいのだが、丹波哲郎のカッコよさは素晴らしすぎた。善悪や愛憎や慈悲や無慈悲が入り乱れた役柄をクールに演じていた。95点。

永遠のこどもたち

J・A・バヨナ、2007。ホラー映画の王道パターンを継承しつつ、おとぎ話的なテイストを取り入れているところが面白い。映画の作りは素晴らしい。特に撮影の的確さは映画に気品を与えていた。ホラーな演出はかなり控えめだ。首がグルグル回ったりはしないし、唐突なショック映像で驚かすこともない。ホラー映画の見せ場である霊媒師のシーンですら、霊との闘いというような構図にはならない。この映画の見せ場は母子で反復される宝探しであり、だるまさんがころんだにおける過去との反復である。孤児院育ちの母が、その元孤児院に住んでいるという設定が、端的に状況が説明している。母と父はゆるやかな対照を見せる。それが元孤児院という空間だけで説明ができてしまう。そして息子は子どもであるために、孤児院の子どもの霊たちとおとぎ話の世界で遊ぶのだ。こうして子どもの遊びとホラーは見事に共存してゆく。アクション満載のスリリングな宝探しから、ホラーなだるまさんがころんだの、静と動が織りなす対照的な遊びが物語を豊かなものにしている。ただ、ホラーとしての衝撃度は求めていないのかもしれないが、ホラーな雰囲気というのか、ショック映像ではないホラー演出は物足りない気がした。ミステリーも説明描写があるのにわかりづらさがある。ファンタジー的な要素をもっと前面に押し出しても良かったような気がする。この映画は良作や秀作といわれるような映画だとは思うのだが、それ以上のものはあまり感じられない。おとぎ話的な要素があり、ラストのファンタジックな展開があるのだから、もっとファンタジーなイメージがあってもよかったと思う。90点。

嘆きのピエタ

キム・ギドク、2012。救済や贖罪やキリストやマリアなど、宗教的モチーフが多用され、それが仰々しく語られる非常に重い内容なのだが、手持ちカメラと鋭いカッティングによって重さが中和されている。キム・ギドクを何年も見ていないせいもあり、独特の突飛ともいえる演出や展開には新鮮な驚きがあった。まず圧倒的なのは町工場や路地をはじめとするロケーションの素晴らしさである。そこでシャッターや鎖や血や機械や階段や生き物が、とても魅力的に描かれている。その素晴らしい演出技法は、撮影技法との相乗効果によってさらに魅力的を増している。手持ちカメラによる鋭いカッティングは、よくあるカット割りすぎ感がまるでない。緻密にしてぶっきらぼうでもあり、理知的でありながらかなり大胆でもある。物語はキム・ギドクらしく、罪深き人々の救済の物語のようなものになっている。前半と後半で展開がガラリと変わるのもおなじみの形だ。いままでは前半と後半がちがう場所になることが多かったように記憶しているのだが、この映画では対照的な反復という形で男は同じ場所及び人物を巡ってゆく。後半は男にとっては母の捜索巡りである。しかしそこに暗示的されるのは、母のある思いの強化である。そしてサスペンス的に母の正体が明らかになる。終盤は説明を避け、モチーフが物を語るような形で曖昧さを維持しながら形式美的なラストを迎える。チョ・ミンスの美しさとイ・ジョンジンのとらえにくいキャラクターが映画に深みをもたらしていた。95点。