黄色いリボン

ジョン・フォード、1949。西部劇にしては人があまり死なない。退役間際のジョン・ウェイン率いる騎兵隊には死者がひとりも出ない。とはいえ西部劇の血なまぐささはプンプンしており、インディアンの集落に夜討をかけたり、武器商人が無残に殺されたりもするし、他の部隊の死者は残酷に登場する。騎兵隊に死者が出ないという設定はいいのだが、その分を他で殺している印象は拭えない。そういう意味では西部劇に縛られながら、主に語られる騎兵隊だけは西部劇らしくないという、どっちつかずの中途半端さがある。しかしながら、導入部と後半は娯楽として楽しめた。物語は仲間の連帯や他者への敬意が主に語られている。見事に真っ赤な照明のなか、妻の墓地にいるジョン・ウェインは印象的だ。彼は敬意を持たれる上司であり、妻への敬意を忘れない。それは女性への敬意にもあらわれる。インディアンの長老はジョン・ウェインに、若者を統率できないと漏らす。それにより、統率できているジョン・ウェインとのあいだにあからさまな対照性が生じる。そして騎兵隊の連帯が強調される。インディアン絡みの展開は中途半端だ。崖の上のインディアンを映すショットは嵐の前の静けさを感じさせる。しかし、嵐は夜討という形で中途半端に終わる。これは死者を出さない演出でしかないように見える。騎兵隊の人間関係も描かれるのだが、戦闘が動機づけにならないため、こちらも中途半端だ。ベン・ジョンソンへの信頼のみは戦闘なくしても強く感じられる。主題歌「黄色いリボン」の乱発と、劇中の黄色いリボンのモチーフとしての質素さが、なんともチグハグである。90点。

恐るべき子供たち

ジャン=ピエール・メルヴィル、1950。大人は死ぬことで大人ではなくなる。一方、子供は大人になることで子供ではなくなる。その残酷な子供の性(さが)が、性(せい)を通して描かれている。ジャン・コクトーが『海の沈黙』を見て、メルヴィルを指名して撮られた映画である。コクトーは原作の他、脚本、台詞作家、ナレーターとして参加している。常に台詞があるような映画で字幕も多くなり、読みながら見る映画になってしまった。メルヴィルの才能が炸裂している映画ではないが、アンリ・ドカエの撮影スタイルに見られるように、シンプルで適切な演出は見事だ。物語は近親相姦や同性愛を絡めつつ、姉を主人公としたメロドラマの形式となっている。特徴的なのはその世界観だろう。大人たちは登場するがすぐに死ぬか、もしくはいなくなる。子供たちの世界が強烈な形でセッティングされている。姉弟はカネも自由もあるのだが、強烈な息苦しさを抱えている。子供が構築した近親関係が崩れつつあるのだ。弟の女への手紙によってメロドラマは劇的に変化する。メロドラマ的被害者女性としての姉が決定づけられ、姉はファム・ファタールと化す。しかし手紙の女はあまり描かれることはない。同性愛の男との顔の類似があるだけだ。もうひとりの男は道具のような存在だ。物語は姉弟の曖昧で息苦しい近親相姦的な関係に極端に焦点を絞ってゆく。終盤になってようやく大胆なメルヴィルらしい演出が見られる。メルヴィルのファンとしては、この物語とメルヴィルの演出スタイルが合っていないように見える。映画自体の息苦しさと、物語が提示する息苦しさが曖昧に共存している。90点。

ウラジミールとローザ

ジャン=リュック・ゴダール、ジャン=ピエール・ゴラン、1970。西ドイツのテレビ局のために作られた映画で、毎度のことながらテレビ放映を拒否されている。ゴダールの政治映画としてはかなりわかりやすい部類のものだろう。シカゴ・エイトを題材にした裁判劇という形式がわかりやすさを演出している。映画は裁判からそれほど逸脱せずに描かれる。喜劇や風刺という側面は多分にあるものの、終盤のかなり長い真面目なメッセージが示す通り、帝国主義やブルジョワを痛烈に批判する政治教育映画としての側面が強い。裁判劇以外は物語的要素がない。裁判劇で顕著に見られる平面的なショットは登場人物を戯画化している。アドルフ・ヒムラー裁判長は、この映画の風刺や喜劇の王様である。とにかくナレーションなり登場人物が常にしゃべっているか、ロック音楽が消費されるように垂れ流される。退屈する時間がかなり多くあった。わかりやすい映像演出としては、人物を完全にかぶらせることや、ポスターなどへのメッセージの落書き、暗転の有効利用などがある。それらはこの映画ではじめて試みられた手法ではない。しかし、男性のうしろに女性を配し、女性がしゃべり男性が口パクをする意味や、暗転の意味をシカゴ・エイトがシカゴ・セブンとなる所以である、ブラック・パンサー党の黒人ボビー・シールの不在だと明示することや、落書きが長文の政治的メッセージであることなどは、いつになく具体的だ。この映画は、例えば『たのしい知識』などと比較しても、ゴダールらしいキャッチーでポップなセンスがかなり排除され、より政治的なメッセージ性を帯びた映画になっている。90点。

20センチュリー・ウーマン

マイク・ミルズ、2016。劇的な物語とは対極にあるような、やさしくおだやかな物語である。ルームシェアをする5人のキャラクターの描かれ方が見事だ。すべての人物がキレたり殴ったり破壊したりしないのはすごくいい。マイク・ミルズの育ちのよさが映画全体にあらわれている。この映画の最大の特徴は、そういったやさしさであり寛容性である。この映画は、人の誕生や性別、人との距離や人への影響といったように、とにかく人がテーマになっている。グレタ・ガーウィグは子どもが産めないからだになる。エル・ファニングはマトモなビッチであり妊娠検査薬を試す。そしてアネット・ベニングは子どもを産んでおり、それがマイク・ミルズ的主人公である。母は息子が理解できずガーウィグとファニングに教育を託す。しかし、音楽や女性の性などの影響によって母子の距離は広がる。パンクに戯れる若者たちとオールドジャズを聴く母との対比があり、若者たちの行動力が母の孤立を強調する。フェミニンな成長を期待しているであろう母と、1979年のフェミニズムとの距離が圧倒的だ。母と息子の世代の距離は、パンク世代と大恐慌を知る世代としてたびたび示される。それは拡張され、女性たちの価値観の距離にまで及ぶ。それでも映画は母を孤立させたりはしない。ルームシェアの同世代男とはうまくやっているし、世代間の軋轢も生じるのだが、互いを蔑むようなことは絶対にしない。いろいろあって母と息子は距離を縮める。しかし映画はその距離を簡単に引き離す。それは絶望的な距離なのだが、あくまでこの映画らしくやさしくおだやかに描かれる。邦題がとてもむごい。95点。

ポゼッション

アンジェイ・ズラウスキ、1981。ハイテンション映画ベスト10みたいなものがあれば、11位くらいに潜ませておきたい映画だ。それくらいこの映画の演出とイザベル・アジャーニのテンションはすさまじい。イザベル・アジャーニの狂った演技は、ほとんど支離滅裂な映画を正しい方向へと導いてくれる。演出のテンションもすこぶるいい。カメラも人物もグルグル回るしソワソワとせわしなく動き回る。登場人物以外に人が存在しないかのようなベルリンの街並みや建物の撮影も素晴らしい。浮気悪女の地獄絵図のような血なまぐさい物語なのだが、サイコ妻であるアジャーニとサイコな仲間たちに、ミステリーやサスペンスやホラーの要素をぶち込んだような内容になっている。そして、地下道でのイザベル・アジャーニの狂った演技がハイライトとなる。それが中盤あたりにあるものだから、それ以降は狂気の乱舞がないだけに失速度は高い。演出もマンネリ化し、思わせぶりな脚本が下手に謎を生んでいる。この映画は123分なのだが、90分くらいなら恐るべき映画になっていたのかもしれない。90分であればテンション演技もテンション演出も冴え渡り、飽きることなく見られたような気がする。特に後半のミステリーやサスペンスやホラーの要素は、サイコ特有の強迫的な愛や性を骨抜きにしてしまっている。結果として、支離滅裂さが支離滅裂に演出されているように見える。映画全体にイマイチ感がある一方で、絶大なるインパクトをこの映画は持っている。自主映画に見られる初期衝動のような新鮮な乱暴さを持つ映画である。95点。

君はひとりじゃない

マウゴシュカ・シュモフスカ、2015。父娘の家族の再生がユニークな視点で描かれている。生と死という分断された概念が、この映画では再構築される。死は生に近づき寄り添う。死と生の接近は、霊媒や信仰の力よりも強い、家族の力や具体的な出来事によって示される。その語り口は独特のものだ。冒頭、首吊り自殺者が生き返るシュールなシーンがある。このシーンはほんの挨拶代わりにすぎない。この映画ではシュールな演出が多用される。シュールな演出は、それが効力を発揮するとき、映画に包容力をもたらす。例えば、マイク・ミルズの『人生はビギナーズ』で見られた身体の動きのシュールな演出は、映画から浮いてしまうことなく描かれる。その場合、許容される身体の動きの範囲は大胆に広がる。それが包容力を生み出す。この映画でも、シュールな演出によって包容力が生まれ、その包容力が映画全体を包み込んでいる。現実的なシュールさと非現実的なシュールさは分け隔てることなく描かれている。セラピストであり霊媒師でもある女は明らかに有能なのだが、セラピーも霊媒もシュールな身体の動きがある。シュールな格好をする人たちやシュールな格好で死んでいる人たちがいる。霊的現象も起こるし、墓地に眠る母は移動する。父のこころの移り変わりとともに物語は進行する。そして、結局は霊媒頼みとなるのだが、その結末が素晴らしい。散々描かれたシュールな身体が結実し、それを光が祝福している。家族の再生は母の不在の再構築である。それが有能な霊媒師の生をとおしてユニークに語られている。95点。

クリーン

オリヴィエ・アサイヤス、2004。マギー・チャンの再生物語。ドラッグとロック、愛と死が絡み合う、熱情あふれる物語である。しかし、物語はその熱情を冷却させながら語られる。冷却装置はマギー・チャンの演技であったり、予定調和しない脚本であったり、アサイヤスの演出であったりする。ぶつ切りにされるショットは、その熱の上昇を抑制し、マギー・チャンは、熱情あふれる心情を高らかに吐露することはない。しかし、マギー・チャンの運動は見逃せない。そこに心情が吐露されているのだ。息子に会えなくなったときのマギー・チャンを追うショットはその典型だ。運動を追うことと心情を追うことがイコールになっている。それが、さらなる効果となってあらわれるのが、直後の息子との無言の対面のシーンである。前のシーンと対照させることで、マギー・チャンの心情と運動を、簡潔ながら強烈に印象づけている。この映画は、時空間の演出に一貫性をもたせながら、時折それを崩してみせる。世界を転々としているのにもかかわらず、その場その場でさらに転々とするため、大小の移動に不自然さがまるでない。常に物語は省略を繰り返し、不安定なマギー・チャンを性急に追う。ただ、マギー・チャンは、その心情と同様に性急さと穏やかさが共存する。義父のニック・ノルティには性急さがまるでなく映画にも流されない。この展開と人物の性急さの演出及び演技は見事である。音楽を扱う映画なのだが、残念ながら音楽はダサい。マギー・チャンとホープ・サンドヴァルの比較は映画とは関係がないのだが、そのほのめかしのせいでラストは低レベルな音楽が強調されてしまっている。90点。