さすらい

ヴィム・ヴェンダース、1975。『都会のアリス』で見られた自由な演出スタイルが、この映画では演出という枠を超えて映画そのものが自由を獲得しているように見える。まず物語から自由であろうとする意図は強く感じられる。人物設定の曖昧さは物語性の回避につながっている。具体的なエピソードもあるにはあるのだが、ディテールが語られることはない。この映画は時間と空間からの自由度もかなり高い。映画のなかの時間の推移はまるでわからない。シーンとシーンを入れ替えてもいいし、一週間の出来事なのか一年間の出来事なのか、ほとんどわからない。その上この映画は映画外の時間、つまり上映時間という意味でも時間からの自由度が高い。時間の使い方の優雅がすさまじいのだ。3時間の上映時間のなかに詰め込まれている物事の少なさ。それでも無駄が一切ない。大作ゆえに尺が長くなる映画は多いのだが、この映画の場合はその優雅な時間を描くために尺が長くなっている。時間を左右するものが、語られる物語の量とは無関係なのだ。だから時間から自由でいられる。空間の自由さはロード・ムービーならではのもので、目的地もなくただ漂流している。その時間と空間のなかで登場人物のこころも漂流する。物を語る映画ではないから台詞はかなり少なく、論理的であったり演劇的であったりすることはない。そして、ロビー・ミューラーのシャープなモノクロ映像は本当に神がかっている。カメラワークも素晴らしい。この映画の映像体験というものは、何回見ても色あせることがない。いつまでも見ていたいと思わせてくれる数少ない映画のひとつである。100点。

夏物語

エリック・ロメール、1996。1人の男と3人の女をめぐるバカンス映画。この映画では、主人公ガスパールのキャラクターが明確に語られることはない。ガスパールのまわりが描かれ、そのなかでガスパールが形作られる。3人の女はそれぞれになにかを象徴してはいるものの、タイプの違う3人という枠からはみ出すことはない。映画のほどんどはガスパールと女が移動しながら会話するシーンのみで構成される。多くのロメール作品がそうであるように、台詞は身体化され自然に発せられる。ショットは基本的に長回しである。それらが見事な融合を見せるとき、映画からなにかすさまじいものが発せられるわけではない。実際には、役者の台詞や動き、カメラの動きや背景の自然描写など、すべてが驚異的だ。しかし、この映画からその驚異を感じることはない。カメラの存在を忘れ、役者の演技も忘れ、ただ映画のなかに入り込んでしまう。作家主義的なアプローチが、ソリッドでありながらソフトに、そしてシンプルに極められ、あまりのすごさにすごさを忘れてしまうのだ。ものすごく作家性のある映画だし、構造的にもそれはあらわれているのだが、その演出の自然な装いに誘われるがままに映画に没入してしまい、気がつけば映画は終わっている。だからロメールの映画は何度見ても飽きないし、何度見ても新たな発見がある。ダメ青年ガスパールに対する眼差しはすごくやさしい。映画の眼差しはマルゴという女の眼差しに近いものがある。そのマルゴの描かれ方が絶妙で、それにより映画も絶妙なものになっている。100点。

サラ、いつわりの祈り

アーシア・アルジェント、2004。監督としては二作目。まず、クローズアップや手持ちを多用する撮影からして、かなりぶっ飛んでいる。基本的なショットの構成に慣れ親しんでいるものだから、なおのこと奇妙な映像作劇には驚かされた。そこに暴力描写を抑制する意図で挿入されたであろうイメージが重なり相乗効果を生んでいる。ただ、普通じゃない撮影の一部には確実にダリオのBなテイストが継承されているように感じた。この撮影と脚本とアーシアの演技は見事なまでに有機的に絡み合っている。物語形式を維持しながら、物語的な描写を省略してゆくスタイルによって、アーシアの普通じゃない生き様が見事にカメラにおさめられている。キリスト教の表裏を見せるような映画なのだが、アーシアはその表か裏かは知らないが、宗教的存在をほのめかすほどに一直線だ。その直線が見事に太字で描かれているからこそ、映画は少年の微妙な変化をつかみ取ることに成功している。それがラストの必然性へとつながり直線はより太く揺るぎないものとなる。この映画は製作を『バッファロー’66』や『ヴァージン・スーサイズ』のクリス・ハンレイ、撮影をガス・ヴァン・サントの諸作や『KIDS/キッズ』のエリック・エドワーズが担当している。ソニック・ユースなどが参加した音楽も近年稀に見る素晴らしさだ。アーシアには勝手に同世代シンパシーを抱いていたのだが、この映画は個人的な映画史ともピンポイントでつながっている。だから見たあとの感慨がいつもとは異なる。われわれの映画だと思わずにはいられないし、それが現在進行形であることを改めて確信し勇気づけられた。95点。

暗黒街の弾痕

フリッツ・ラング、1937。ラングがアメリカに亡命して数年後の作品。ハリウッド黄金期のマナーを凌駕してゆくようなラングの演出が冴え渡る作品だ。そしてその後ラングは当然のようにハリウッド黄金期を代表する監督になってゆく。恐るべき演出が強烈な映像をもって示される。鉄格子の影、ガスマスクと煙と豪雨と窓の隙間から覗く瞳、ヘンリー・フォンダと牧師の運命的なシーンに運命的に立ち込める煙、そして国境付近の森の造形と神々しい光。脳裏に焼き付いて離れない映像がいくつもある。音の演出もすさまじい。台詞より先に台詞よりデカい効果音を入れたり、異常な音量のサイレンが鳴り響いたりする。効果音も映画音楽も映画に対してとても有効に機能している。ヘンリー・フォンダの演技が素晴らしい。善と悪、理性と狂気が共存する役柄を、ほとんど表情だけで演じてみせる。ラングは脚本を書いてはいないのだが、ドイツ時代の『M』と同様に、個人や権力や大衆に内在する恐怖が描かれている。『M』と比較するとこちらは当然ながらハリウッドのマナーで作られており、多分低予算映画であるからセットも簡素だ。映画全体のフォルムは『M』と比較すれば平凡な感じがしてしまう。しかし、ラングがモンスターにしか見えない『M』と比較すると、この映画はハリウッドマナーで作られている分、ラングの異形さは目につきやすくなっている。とはいえ、ハリウッドとラングの奇跡的な融合がこの映画で見られるわけではない。それを見たいから他も当たってみようと思う。邦題がかなり謎で暗黒街は出てこない。95点。

ディストラクション・ベイビーズ

真利子哲也、2016。『NINIFUNI』では、死者とアイドルの、近くて遠い絶望的な距離が描かれていた。この映画でも社会的な生命力と社会からはみ出た生命力を対照させて描いている。港の向こう側とこちら側は、冒頭で提示され、終盤でふたたび提示される。冒頭では明確に示された兄弟の差異は、終盤ではフードによって隠される。それは社会というラインの曖昧さをほのめかす。実際兄弟はどちらがどちらでもおかしくはない。この常識からかけ離れまくった映画を見てもなお、兄弟の判別がつかないという曖昧さが、社会からはみ出ることの容易さを物語っている。しかしどうにも釈然としないのは、ふたりの男女、菅田将暉と小松菜奈の描かれ方だ。菅田将暉が女性に暴力を振るいまくるシーンの唐突さは理解ができない。社会からはみ出すことを大胆にやってのけているように見える。それはこの映画のテーマからはズレているように思える。小松菜奈のキャラクターは女性を象徴させすぎてしまっている。そして、そんな3人の逃避行がおもしろくないのだから致命的だ。柳楽優弥は前半で出番を終えてしまったようだ。だから逃避行のなかで、変化するキャラクターである菅田将暉と小松菜奈と、不変のキャラクターである柳楽優弥との関係性のドラマが見えない。後半の逃避行はエピソードとしても描かれ方も面白味に欠ける。追跡するカメラや、傍観するカメラは素晴らしい。手持ちカメラでざわめきを表現したりはしないし、カットをむやみに割って活劇を演出したりはしない。だからこそ柳楽優弥が振り返るだけでそれが一番暴力的な描写になったりするのだ。90点。

フリッツ・ラング、1931。サイコスリラーのようなジャンルとしての恐怖はそれほどでもない。しかしこの映画はジャンルを超越した恐怖に満ちあふれている。その恐怖は殺しの恐怖ではない。狂人の恐怖でもない。フリッツ・ラングが構築した世界に内在する恐怖であり、撮影によって演出された映像のすさまじい恐怖である。装飾を配した薄気味悪くも美しいセット撮影によって、映画の世界が見事にセッティングされている。無音のままショットが羅列され、人と人が入れ替わり、喋ったままショットが羅列され、足音だけが聞こえたり、名を呼ぶ声だけが聞こえたりする。俯瞰ショットでとらえられる人物の動きや、得意の影の演出など、フリッツ・ラングのやることなすことすべてが怖い。善悪二元論や勧善懲悪を排することで、現実的な不気味さが際立ち、明確な恐怖の対象がなくなることで恐怖は増幅する。警察とギャングは、その類似と平行性がクロスカッティングによって描かれる。警部はとてつもなくだらしないローアングルで撮影され権威のみが強調される。そして地下室においてギャングと犯人ピーター・ローレの裁判のシーンがある。そこで恐怖の対象が民衆となる。警察、ギャング、民衆、サイコとすべてから恐怖を煽られ、ラストの意味づけは完全に無効化される。かなり社会的なモチーフが描かれているのだが、冴え渡る恐怖演出はそれを凌ぐものがある。この映画で描かれる恐怖演出は、殺しや破壊や落下などの単純なスリルを用いることはない。だから恐怖に占める演出の割合がやたらと大きい。そういった意味で度肝を抜かれる怪物映画であり、イミテーターは多かれど比肩するのは難しい。100点。

アクト・オブ・キリング

ジョシュア・オッペンハイマー、クリスティーヌ・シン、2012。スカルノ政権下で起こったインドネシアの9月30日事件についてのドキュメンタリー。被害者側から撮る予定だったのが、当局から接触を禁じられ、加害者側から撮ることになった。加害者のなかでも殺人部隊であったヤクザを取材対象にしており、そのヤクザたちに虐殺の再現映画を撮らせるというのが映画の流れになっている。映画は1000人殺したとされるヤクザの親分アンワルを中心に語られる。状況がすさまじければ内容もまたすさまじい。映画にまつわる象徴的な現象が見えてくる。アンワルが映画にリアリティを追求すればするほど、現実の残虐性ゆえにフィクションになってしまう。政府の人間には描写が残虐だと言われ、当の本人もリアルな描写にぞっとする。プロパガンダ映画に対するアンワルの確固たる自信はもろくも崩れ去る。自分を主演にしてヒーロー映画と虐殺映画を同時に撮ろうなんて無理な話のは最初からわかっている。だがその過程でアンワルの内面は見事に照射されてゆく。映画は役柄を入れ替えて、アンワルは被害者側に立ち首を絞められる。その映像を見たアンワルは被害者の気持ちがわかると言う。しかしドキュメンタリーはあっけなく突き放す。ただの映画だと。アンワルは学生映画を撮る青年のように、映画において自分探しをしている。ハリウッドスターに憧れ、映画のように人を殺し、その後のスハルトによる思考停止があり、40年ぶりにそれを再現しようとしたときの齟齬。嗚咽というモチーフの反復と差異が、演じるという映画のテーマを見事に浮き彫りにしている。100点。