カサブランカ

マイケル・カーティス、1942。この映画は同時代のハリウッドの古典と比較すると魅力に欠ける。演出が一本調子でだだだだだと話が展開してゆくさまは見ていて気持ちのよいものではなかった。ちょっと恥ずかしくなるような政治的な展開もプロパガンダ映画ならではのものだ。イングリッド・バーグマンはバーグマンらしい安定した演技を見せている。しかしこの映画はハンフリー・ボガートの映画だ。クセのある演技がクセのない演出を強引に引っ張っている。たとえば、ニコラス・レイの『孤独な場所で』で見られたようなボガートの凄みは、この映画では見られない。それでも他にふさわしい俳優がいないと思わせるほど、ボガートの佇まいと演技は別格である。技術屋たちはいい仕事をしているのだと思う。しかしマイケル・カーティスの演出は疑問だ。その演出からはどこか軽薄な印象を受けた。シーンの流れの一本調子な感じは演出力不足を露呈している。さらにこれといった魅力的な場所もセッティングされない。場所となるとボガートの店くらいしかないのだが、魅力的な空間としてセッティングされることはない。映画を作る上での時間と空間の創造力、もしくは想像力という点でこの映画は力不足な感じがする。戦時下のハリウッドでプロパガンダという状況がそうさせたのかもしれない。とにかくハンフリー・ボガートとイングリット・バーグマンはたくさん映っている。だからスタア映画として見れば楽しめる映画にはなっている。90点。

めまい

アルフレッド・ヒッチコック、1958。アメリカンフットボールの攻撃は決まったプレーが繰り返されることがよくある。試合を通して見れば決まったプレーの反復と差異によって攻撃が成り立っている。この映画の極めて異質なところはプレーが反復されるその頻度にある。アメリカンフットボールのようにゲームを見るような感覚で反復がひたすら繰り返されるのだ。なにかを見ている人物を見せてその人物の主観ショットを見せる。大概はジェームズ・スチュアートのショットから主観に相当するショットにカットされる。そしてプレーのテンポが普通じゃない。とてもゆったりとしたテンポで台詞も最小限に展開してゆく。『裏窓』や『ハリーの災難』に匹敵する変なヒッチコック映画だ。二部構成となっており、ここでジェームズ・スチュアートはふたたび生きた女に死んだ女の姿を見て恋をする。さらに第二部ではジェームズ・スチュアートが死んだ女、すなわち取り憑く女の役回りを自ら演じることで、キム・ノヴァクを取り巻く環境の変化が奇妙な類似を見せながら、第一部との反復と差異がとりわけ強調される。キム・ノヴァクの第一部の精神錯乱演技は気品や優雅さがあって素晴らしかった。第一部の尾行のテイストのまま映画が終われば文句なしだった。第二部も魅力的なのだが、第一部を巡る数奇な物語という感じで第一部のテイストは失われてしまった。見るという行為に関しては一貫して強烈な演出が見られる。高所恐怖症から細かな視線の描写、死人とそっくりに仕立てるところなど、ひたすら見ることに執着した映画である。不思議な映画だからもう一度見たくなった。100点。

殺したい女

デヴィッド・ザッカー、ジェリー・ザッカー、ジム・エイブラハムズ、1986。幼馴染のジム・エイブラハムズとザッカー兄弟による、いわゆるZAZ作品。青春映画でもないのにこれぞ80年代という雰囲気が映画に充満している。とにかく素敵だったのがヘレン・スレイターだ。80年代のにおいがプンプンする可愛らしさや、育ちの良さ丸出しのすれていない演技を見ているだけで、アイドル映画として十分に満足できるものだった。映画の登場人物たちは70年代的なのだが、音楽や色使いなど空気は思いっきり80年代になっており、それがこの映画をほどよく軽薄なものにしていた。悪事と悪人の分離がこの映画をおもしろくしている。ただ善人も悪人も間抜けなことでは一貫しており、おぞましくもキュートですべてが間抜けな世界が見る者の笑いを誘う。ただ喜劇人っぽいのはダニー・デヴィートだけであり、他の人物にはもっとキレのある演出でおもしろおかしく見せてほしかった。ダニー・デヴィートの愛人や警察署長はもっと醜態を晒したほうがいいと思ったし、ベット・ミドラーはもっとおばちゃんパワー炸裂したほうがいい。電話の使われ方は見事に映画を活気づけていた。脚本にも難があるといえばあるような気はする。でも殺そうとした妻が誘拐されるというあらすじのおもしろさでこの映画はほぼ決まりという感じがした。とにかくこの映画は菓子でも食いながら気軽に見られる娯楽映画だから楽しまなければ損というものだろう。ZAZ作品はもう少し見てみようと思った。90点。

知りすぎていた男

アルフレッド・ヒッチコック、1956。1934年の『暗殺者の家』を自らリメイク。この映画はモロッコとイギリスを舞台としているのだが、舞台によって映画のテイストがかなり異なっている。スクリーン・プロセスを多用しているせいか、モロッコの異質な空間にはちょっと驚かされた。見ているときにはスクリーン・プロセスが邪魔だったのだが、あとから考えればスクリーン・プロセスこそがモロッコを決定づける効果的な演出となっていたように思う。それに比べると、イギリスは普通に撮られているからずいぶん落ち着いた印象がある。ジェームズ・スチュアートとドリス・デイも、息子を誘拐されたままなのだが、家に帰って一安心といったムードが漂ってしまっている。見せ場はアルバート・ホールでのコンサートシーンなのだが、オリジナルを最近見たせいかスリル満点とはいかなかった。でもこのシーンは相変わらず素晴らしいものだった。で、次の見せ場として大使館でのドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」となるわけなのだが、このシーンがとてつもなく長く感じてしまった。この映画でもヒッチコックらしい様々な映画技法が炸裂しているのだが、アルバート・ホールでは音楽を利用しているのに対して、大使館のシーンでは音楽に利用されているような印象が残った。大使館のシーンで映画が終わっていたら退屈な映画だと思ったかもしれない。でもラストは品の良さと投げやりさを兼ね備えた見事なものだ。最後まで楽しませてくれるサービス精神旺盛な感じはヒッチコックらしい。もやもやした物足りなさは美人女優がいないからだろう。90点。

6才のボクが、大人になるまで。

リチャード・リンクレイター、2014。2004年の『ビフォア・サンセット』では、80分間の出来事がそのまま80分間の映画になっている。それに対してこの映画は、12年間の出来事を12年間かけて撮影するというものだ。映画のスタイルを考えると12年かけて撮影しなければならないものだと感じさせる説得力がある。出来事を羅列してゆくそのスタイルにおいて12年にわたる撮影は見事に効果を発揮している。単純なシーンチェンジで年月が経過し、その取り上げた時間に特別なことが起こるわけでもなかったりする。脇の登場人物はシーンが変わると消えたりする。ドラマチックな描写は排除され、ただときが流れるように映画も流れてゆく。この演出スタイルは原題である『少年期』の記憶に近いものがある。この映画は6才の少年が大人になるまでを描いた映画ではなく、少年が親元を離れるまでのまさに少年期を描いた時間の映画なのだ。そこで見えてくるのは少年の成長よりも、少年目線の様々なアメリカの大人たちである。少年目線であるからこそ大人たちの厄介な諸事情に深入りすることはないし、少年自身の体験も時間があっさり消し去ったりする。出来事の羅列には少年たちの加齢をともなう。そこで見えてくるのはやはり時間なのだ。『パリ、テキサス』のロケ地が使われたりしているのだが、共通点があるように思えた。時間と空間にまつわるロードムービーという視点、崩壊した家族というアメリカの風景、そしてなにより未来を託される少年。『パリ、テキサス』のような特別な映画にはならなかったし、長い映画は嫌いなのだが存分に楽しめた。95点。

ラ・ジュテ

クリス・マルケル、1962。異色の短編映画。映像が動画ではなく静止画によって構成されている。短編映画を普段あまり見ないから物足りなさはあるのだが、その鮮烈なイメージを維持させるのに30分というのは適切だったように思う。この映画は過去にとらわれた男を主人公にしたSFラブロマンスのような形式になっている。動画が過去を大量生産することでしか成り立たないという軽薄さやはかなさは映画が誕生してからずっと持たれてきた感覚である。この映画はその過去の大量生産を阻止している。動画という見えもしない瞬間によってではなく、静止画という瞬間の持続によって見える映画をつくることに成功している。1/24秒の静止画が数秒まで持続することで、はじめて瞬間を凝視することができるのだ。だが結局のところ、素早いカット割りでエモーションはつくりだされているし、唯一動画となる女の映像にはなんの深みも感じられなかった。この映画の最大の強みはナレーションと白黒写真だけで構成され、一切のムダもなく30分であっさりと終わることだろう。それらの構成要素の凝縮がタイトでソリッドで窮屈な空間と瞬間をつくりだしている。それは映画体験として一般的な映画とは異なるものだ。この映画は映画が好きな人なら誰もが体験すべき映画だろう。上映時間も30分だから簡単に見られる。そしてこの映画を見ると一般的な映画がものすごく見たくなる。映画とべったり寄り添いながらもアート的な飛躍をしているあたり、さすがヌーヴェルヴァーグ界隈という印象があった。95点。

倫敦から来た男

タル・ベーラ、フラニツキー・アーグネシュ、2007。音楽でいえばアンビエントにインダストリアルをまぶした感じとでもいえばいいだろうか。どちらの音楽もまるでわからないから、この映画もまるでわからなかった。ゆっくりとした長回しは例えばロシアの長回しの名手のような驚きはまるでなく、カットしてつまんでしまえと思ってしまった。ただこの映画にとって時間というものはとても重要で、その時間は劇場で見る時間として認識するのが正しいと思う。それに窓が大量に登場するのだが、これは劇場におけるスクリーンの役割を果たしている。だからテレビでは自分の時間と映画の時間を合わせるのは困難だし、窓とテレビ画面の関係は窓とスクリーンに比べると格段に落ちる。映像と音声を分けて構築するやり方もハマっていなかった。アテレコやアフレコの不自然さは意図的なのか無頓着なのかまるでわからない。眠りを誘うようなカメラワークと音楽があって、では物語はといえば、こちらもかなり反物語的なものになっている。夜霧や波止場や船や列車や窓や路地や小屋や謎の男や殺人事件や大金など、極めて映画的なモチーフを使いながらも潔癖症のように物語映画になることを避けている。タル・ベーラは他の作品も見たいと思っているのだが、この映画だけ見た印象では、極端さが中途半端であるように思えた。そしてそれが最大の欠点になっている。いずれにせよお気軽に見られる映画ではなかった。90点。