暗黒街の弾痕

フリッツ・ラング、1937。ラングがアメリカに亡命して数年後の作品。ハリウッド黄金期のマナーを凌駕してゆくようなラングの演出が冴え渡る作品だ。そしてその後ラングは当然のようにハリウッド黄金期を代表する監督になってゆく。恐るべき演出が強烈な映像をもって示される。鉄格子の影、ガスマスクと煙と豪雨と窓の隙間から覗く瞳、ヘンリー・フォンダと牧師の運命的なシーンに運命的に立ち込める煙、そして国境付近の森の造形と神々しい光。脳裏に焼き付いて離れない映像がいくつもある。音の演出もすさまじい。台詞より先に台詞よりデカい効果音を入れたり、異常な音量のサイレンが鳴り響いたりする。効果音も映画音楽も映画に対してとても有効に機能している。ヘンリー・フォンダの演技が素晴らしい。善と悪、理性と狂気が共存する役柄を、ほとんど表情だけで演じてみせる。ラングは脚本を書いてはいないのだが、ドイツ時代の『M』と同様に、個人や権力や大衆に内在する恐怖が描かれている。『M』と比較するとこちらは当然ながらハリウッドのマナーで作られており、多分低予算映画であるからセットも簡素だ。映画全体のフォルムは『M』と比較すれば平凡な感じがしてしまう。しかし、ラングがモンスターにしか見えない『M』と比較すると、この映画はハリウッドマナーで作られている分、ラングの異形さは目につきやすくなっている。とはいえ、ハリウッドとラングの奇跡的な融合がこの映画で見られるわけではない。それを見たいから他も当たってみようと思う。邦題がかなり謎で暗黒街は出てこない。95点。

ディストラクション・ベイビーズ

真利子哲也、2016。『NINIFUNI』では、死者とアイドルの、近くて遠い絶望的な距離が描かれていた。この映画でも社会的な生命力と社会からはみ出た生命力を対照させて描いている。港の向こう側とこちら側は、冒頭で提示され、終盤でふたたび提示される。冒頭では明確に示された兄弟の差異は、終盤ではフードによって隠される。それは社会というラインの曖昧さをほのめかす。実際兄弟はどちらがどちらでもおかしくはない。この常識からかけ離れまくった映画を見てもなお、兄弟の判別がつかないという曖昧さが、社会からはみ出ることの容易さを物語っている。しかしどうにも釈然としないのは、ふたりの男女、菅田将暉と小松菜奈の描かれ方だ。菅田将暉が女性に暴力を振るいまくるシーンの唐突さは理解ができない。社会からはみ出すことを大胆にやってのけているように見える。それはこの映画のテーマからはズレているように思える。小松菜奈のキャラクターは女性を象徴させすぎてしまっている。そして、そんな3人の逃避行がおもしろくないのだから致命的だ。柳楽優弥は前半で出番を終えてしまったようだ。だから逃避行のなかで、変化するキャラクターである菅田将暉と小松菜奈と、不変のキャラクターである柳楽優弥との関係性のドラマが見えない。後半の逃避行はエピソードとしても描かれ方も面白味に欠ける。追跡するカメラや、傍観するカメラは素晴らしい。手持ちカメラでざわめきを表現したりはしないし、カットをむやみに割って活劇を演出したりはしない。だからこそ柳楽優弥が振り返るだけでそれが一番暴力的な描写になったりするのだ。90点。

フリッツ・ラング、1931。サイコスリラーのようなジャンルとしての恐怖はそれほどでもない。しかしこの映画はジャンルを超越した恐怖に満ちあふれている。その恐怖は殺しの恐怖ではない。狂人の恐怖でもない。フリッツ・ラングが構築した世界に内在する恐怖であり、撮影によって演出された映像のすさまじい恐怖である。装飾を配した薄気味悪くも美しいセット撮影によって、映画の世界が見事にセッティングされている。無音のままショットが羅列され、人と人が入れ替わり、喋ったままショットが羅列され、足音だけが聞こえたり、名を呼ぶ声だけが聞こえたりする。俯瞰ショットでとらえられる人物の動きや、得意の影の演出など、フリッツ・ラングのやることなすことすべてが怖い。善悪二元論や勧善懲悪を排することで、現実的な不気味さが際立ち、明確な恐怖の対象がなくなることで恐怖は増幅する。警察とギャングは、その類似と平行性がクロスカッティングによって描かれる。警部はとてつもなくだらしないローアングルで撮影され権威のみが強調される。そして地下室においてギャングと犯人ピーター・ローレの裁判のシーンがある。そこで恐怖の対象が民衆となる。警察、ギャング、民衆、サイコとすべてから恐怖を煽られ、ラストの意味づけは完全に無効化される。かなり社会的なモチーフが描かれているのだが、冴え渡る恐怖演出はそれを凌ぐものがある。この映画で描かれる恐怖演出は、殺しや破壊や落下などの単純なスリルを用いることはない。だから恐怖に占める演出の割合がやたらと大きい。そういった意味で度肝を抜かれる怪物映画であり、イミテーターは多かれど比肩するのは難しい。100点。

アクト・オブ・キリング

ジョシュア・オッペンハイマー、クリスティーヌ・シン、2012。スカルノ政権下で起こったインドネシアの9月30日事件についてのドキュメンタリー。被害者側から撮る予定だったのが、当局から接触を禁じられ、加害者側から撮ることになった。加害者のなかでも殺人部隊であったヤクザを取材対象にしており、そのヤクザたちに虐殺の再現映画を撮らせるというのが映画の流れになっている。映画は1000人殺したとされるヤクザの親分アンワルを中心に語られる。状況がすさまじければ内容もまたすさまじい。映画にまつわる象徴的な現象が見えてくる。アンワルが映画にリアリティを追求すればするほど、現実の残虐性ゆえにフィクションになってしまう。政府の人間には描写が残虐だと言われ、当の本人もリアルな描写にぞっとする。プロパガンダ映画に対するアンワルの確固たる自信はもろくも崩れ去る。自分を主演にしてヒーロー映画と虐殺映画を同時に撮ろうなんて無理な話のは最初からわかっている。だがその過程でアンワルの内面は見事に照射されてゆく。映画は役柄を入れ替えて、アンワルは被害者側に立ち首を絞められる。その映像を見たアンワルは被害者の気持ちがわかると言う。しかしドキュメンタリーはあっけなく突き放す。ただの映画だと。アンワルは学生映画を撮る青年のように、映画において自分探しをしている。ハリウッドスターに憧れ、映画のように人を殺し、その後のスハルトによる思考停止があり、40年ぶりにそれを再現しようとしたときの齟齬。嗚咽というモチーフの反復と差異が、演じるという映画のテーマを見事に浮き彫りにしている。100点。

トム・アット・ザ・ファーム

グザヴィエ・ドラン、2013。ドランはじめての原作モノ。これまでの作品に見られた定番のショットや色づかいは抑えられており、物語を語ろうという意欲が伺える。この物語が非常に厄介なもので、ゲイを隠すことからとんでもない方向へと物語は展開する。死んだ男の恋人ドランは友人として登場する。そして架空の家族が設定される。母はドランに息子を見る。同様に兄もドランに弟を見て家族を見る。厄介な家族ならそれで話は終わるのだが、ドランが兄に弟を見てしまう。そして都会人ドランの農場生活がはじまる。ドランは良かれと思い死んだ男の恋人役の女を呼ぶ。ここからの話が見事なのだが、女は恋人を演じるが煙たがれる。ドランに説教して一緒に街へ出ようと言う。そのときドランの衝撃発言がある。見事に兄の発言が反復され無限ループ地獄へと陥っていることが判明する。女は泥酔してセックスしてとっととバスで帰る。同時にドランは昔の兄の話を人から聞かされる。女の投入によって、わずかな時間で架空の家族は崩壊へと導かれる。ドランは自分に気がついて逃走する。この映画はDVや家族の喪失、理想と現実や自覚と無自覚など近すぎると見えなくなるものをテーマにしている。母は理想と現実、自覚と無自覚のあいだで宙ぶらり状態であり、兄はDVという名の保身と愛の暴力によって自覚的に家族を喪失から守ろうとして無自覚的に崩壊させている。ドランはすべてにおいて近視眼的になるのだが、自ら投じた近視眼にならない対照である女性によって物語から解放される。物語は張り詰めた緊張感が緩むことなく持続する。そのスリルの演出は見事である。95点。

間諜最後の日

アルフレッド・ヒッチコック、1936。ヒッチコックも語っているが、主人公がいやいや仕事しているっていうのはやはり乗り切れないものがある。そして昨今のスパイものでは女の非情な強さが目立つなか、マデリーン・キャロルの職務放棄するわ人情に流されるわというのはかなり斬新なキャラクターだろう。ひとり安定感を見せつけたのはピーター・ローレで、コメディリリーフ以上の役割を演じている。物語がイマイチパッとしない分だけ、ヒッチコックの演出が目立つ形になっている。こういう映画は監督の腕の見せ所だ。凡百の映画監督はこのイマイチな脚本をイマイチ以下にしか撮ることができない。しかし、ヒッチコックはサービス全開に演出しまくる。スイスへの華麗なシーンチェンジ、カジノのボタン、アルプスでの殺し、執拗な犬のカットバック、ノイズによりサイレント化したチョコレート工場、そして最後の列車と飛行機のアクション。どれもスリルに満ちあふれていて素晴らしい。ロバート・ヤングは最初から怪しい人物として登場して、案の定バレて、ピーター・ローレを殺して終わる。そのあたりの脚本も本当に弱々しい。人物の心情のブレではなく脚本のブレがやたらと気になる。そういう意味でまったくブレないピーター・ローレの存在により映画はなんとか安定を保っている。とてつもない列車脱線爆破みたいなシーンがあって、ラストのアンハッピーエンドとハッピーエンドがあるのだが、アンハッピーエンドはもう少し描けたような気がする。90点。

何も変えてはならない

ペドロ・コスタ、2009。ジャンヌ・バリバールの音楽ドキュメンタリー映画。モノクロの固定カメラのなかで、スタジオやライブの演奏が流れる。光のつかみ方がペドロ・コスタらしい。音を聴けばわかるのだが、緻密にミックスされている。しかしそれは隠される。あたかもカラーから色がかくされるように、緻密なミックスも隠されるのだ。そうして表層に残るのは、光と影とジャンヌ・バリバールとその声である。演奏は隠すことができても空気の振動を必要とする声だけは隠れない。同様に光と闇は作用するため隠れることはない。声と闇の美しさはこの映画を物語っている。この映画は光と闇とジャンヌ・バリバールから音楽を見事に引き出している。タイトルにある「何も変えてはならない」とはゴダールがブレッソンから引用した言葉だ。この映画はジャンヌ・バリバールの音楽を何も変えることはない。フィックスのカメラで見つめるだけだ。ただ、この映画は劇場でこそ威力を発揮するものだろう。まず音楽がちゃんと作られているから爆音で聴くべきである。さらにモノクロのショットは、少なくとも見ているあいだは世界がそのショットのみで構成されていてほしい。テレビの闇とスクリーンの闇はまるで別物である。物語性が希薄な分、家で集中して見るのは難しいし、できれば字幕なしで見たくなる。そう考えると気軽に見られそうで、実はかなり厄介な映画である。わかりやすいのだが、かなり芸術映画的な佇まいがあり、実際ガチンコ勝負するだけの強度をこの映画は持っている。個人的には音楽をBGMとして垂れ流すように、この映画も垂れ流して何度も見るのがいい。95点。