フルスタリョフ、車を!

アレクセイ・ゲルマン、1998。ユダヤ系医師の数奇な運命を描いた物語。しかし、物語性はかなり排除されている。まず、圧倒的なエネルギーに驚かされる。多くの人が動き回り、奇妙な行動を取り、意味のない台詞を連発する。それが、奥行きを活かした演出によって重層的に語られる。カメラの動きと人物の動きがすさまじい。過去のゲルマン作品を参照すれば、この映画は突然変異とはいえない。しかし、圧倒的なエネルギーは別である。映画は、エネルギーが入り乱れた祝祭的空間を生み出し、そのカオスのなかで物語性は意図的につばを吐くように捨てられる。そのエネルギーの動機は説明されない。映画冒頭のクレジットを参考にすると、ユダヤ系医師が次々と逮捕されている時期であり、粛清のムードが高まっている時期であり、そしてスターリンが死ぬ時期である。その時代の雰囲気の語られ方に注目すると、映画のナレーションは医師の息子である少年によって語られる。それは少年の声のまま語られるため、それほど遠い未来の声ではない。炎が最後に燃え盛るさまを、炎が消えてまもなく語っているのだ。実際には、少年のナレーションの扱いは小さいし、当然ながら全知の語りでもない。ここでは、この物語の時期とナレーションの時期、つまりスターリンの死をはさんだ少年の、熱を帯びた不確かな思い出を視点の核とし、その拡散にエネルギーをもたせることで、時代の雰囲気を独特なものにしているようにも受け取れる。物語性が排除されることで、必然的に音と映像に意識は向けられる。たしかにそれらの演出は素晴らしい。ただ、長尺映画にふさわしいかどうかは疑問が残る。95点。