シルビアのいる街で

ホセ・ルイス・ゲリン、2007。映し出される女性の顔の数々。反射または透過するガラス。パンをしないカメラ。立体的な音響設計。ほとんど存在しない台詞。物語性の排除。いかにも映画的な理知と野心にあふれた映画であり、見る者の想像力にゆだねられる映画である。それは映画のスタイルにもはっきりとあらわれる。この映画の多くのショットは男の主観ショットの役割を果たしている。必然的に見る者は男に拘束される。そうして男の主観を通して見る物事は、やや抽象的なものもあれば、おそらく具体的なものもある。カフェでの顔のショットの連発が見事だ。ここで男と見る者が同一化する。誰をどのように見ているのか思いを巡らすのだ。そしてシルビアを発見し尾行するとき、カメラはローポジションで街を画面いっぱいに映し出す。それまでのカフェの固定ショットから移動ショットへの飛躍は圧倒的だ。さらにハッとするのは、シルビアを正面からとらえるショットだろう。この映画の慣例上あり得ないショットが、絶妙なタイミングで挿入されるのだ。路地をふたりが右へ左へと曲がるとき、カメラの背景もダイナミックに変化する。ただ歩くという運動のみによって映画は飛躍的に変化する。柔軟なフレーミングが映画的な作為を緩和し、髪をなびかせる風がモチーフとして浮かび上がる。シルビアを尾行した次の日が印象的だ。シルビアのいる街が、シルビアのいない街になったとき、シルビアに恋をしている自分に気がづく。終盤はやや抽象的すぎるのかもしれないし、現実的すぎるのかもしれない。そういった相反する概念がすぐ近くに存在する稀有な映画である。100点。