素晴らしき放浪者

ジャン・ルノワール、1932。映画を見ていると、100本に1本くらいの割合で、とんでもない映画に出くわすことがある。この映画はそんな映画のひとつだ。浮浪者である自然人ブーディが現代人の世界に引きずり込まれる。変わることのない自然人と影響される現代人。そして自然人は自然に帰ってゆくというあらすじである。犬を巡る冒頭のやり取りなどによって、カネは現代人をあらわすモチーフとして皮肉られ、車やピアノや身なりなどのモノも同様に皮肉られる。それが現代批判とはならず、あくまで風刺として可笑しみをもって描かれる。ブーディが河に飛び込み自殺未遂をする。それを書店の店主が助ける。ここで重要なのが異常な数の群衆だ。河に群衆は入れないが店主は入る。家に群衆は入れないがブーディは入る。河と家の中間を群衆が埋めることにより、自然人の居場所と現代人の居場所を極めて明確に分離している。店主のマトモな現代人ぶりは、フランス人の理想と現実をデフォルメしたキャラクターのように見える。自然人ブーディにはそんなものは通用しない。しかし、ブーディは性欲という自然の法則によって女性たちと関係を持つ。それにより、この家にあった男女問題が解決してしまうのだからおもしろい。そしてカネの登場で激変が起こり、ブーディも流されそうになるのだが、カネではなく河に流され自然人にもどる。この映画には老獪ともいえる独特の自由さと包容力がある。音楽や歌の使い方は見事すぎる。ショットとショットがカットされるリズムや関係性もユニークだ。そんななかで、自然人ブーディの破壊と調和が軽やかに歌い上げられる奇跡の映画である。100点。