昭和残侠伝

佐伯清、1965。この映画はまず脚本がいい。敵対するヤクザの描写が少なく、親分はいるものの存在感はない。一方、高倉健の組は描かれるキャラクターが多い。池部良、松方弘樹、梅宮辰夫などのスター以外にも明確な役割が与えられる。高倉健の存在感が見事だ。突然復員してくるのだが、動員の数年間の空白感がすごい。まるで記憶喪失でもしているかのようである。動員前に恋仲であった女は諸事情により別の男と結婚している。この救いがたい空白と、抵抗するべからず、という先代の意志を継ぐ親分としての高倉健は、奇妙に類似しているように見える。受難を受け入れる聖人のように見えてくるのだ。この映画は、ヤクザ映画の形式でなくてもいいくらいに、メロドラマ的であり普遍的なドラマ性を含んでいる。池部良は妹の死に絶望し、最後の殴り込みへと向かう。殴り込みへの道は、ヤクザの仁義が前提にあるのだが、メロドラマ的な絶望するふたりの男の宿命としても描かれている。脚本もいいが撮影もまた素晴らしい。スコープサイズを最大限に生かした映像美学によって、抵抗しない高倉健の抑制されたリリシズムが描き出される。とりわけオープンセットの照明や撮影は見事だ。そのなかでも薄明かりの映像美学はこの映画に不可欠な要素となっている。最初の大きな衝突も薄明かりだ。斜めの構図が効果的に使われ、文字通り均衡が崩れてゆくなかで、薄明かりのなか無抵抗が貫かれる。とはいえ無抵抗主義的な映画ではない。見せ場はやはり最後の殴り込みだろう。水道管が破裂して雨のような画と音が強調され、刀や拳銃のみならず爆弾まで使われるシーンはダイナミックである。95点。