フリッツ・ラング、1931。サイコスリラーのようなジャンルとしての恐怖はそれほどでもない。しかしこの映画はジャンルを超越した恐怖に満ちあふれている。その恐怖は殺しの恐怖ではない。狂人の恐怖でもない。フリッツ・ラングが構築した世界に内在する恐怖であり、撮影によって演出された映像のすさまじい恐怖である。装飾を配した薄気味悪くも美しいセット撮影によって、映画の世界が見事にセッティングされている。無音のままショットが羅列され、人と人が入れ替わり、喋ったままショットが羅列され、足音だけが聞こえたり、名を呼ぶ声だけが聞こえたりする。俯瞰ショットでとらえられる人物の動きや、得意の影の演出など、フリッツ・ラングのやることなすことすべてが怖い。善悪二元論や勧善懲悪を排することで、現実的な不気味さが際立ち、明確な恐怖の対象がなくなることで恐怖は増幅する。警察とギャングは、その類似と平行性がクロスカッティングによって描かれる。警部はとてつもなくだらしないローアングルで撮影され権威のみが強調される。そして地下室においてギャングと犯人ピーター・ローレの裁判のシーンがある。そこで恐怖の対象が民衆となる。警察、ギャング、民衆、サイコとすべてから恐怖を煽られ、ラストの意味づけは完全に無効化される。かなり社会的なモチーフが描かれているのだが、冴え渡る恐怖演出はそれを凌ぐものがある。この映画で描かれる恐怖演出は、殺しや破壊や落下などの単純なスリルを用いることはない。だから恐怖に占める演出の割合がやたらと大きい。そういった意味で度肝を抜かれる怪物映画であり、イミテーターは多かれど比肩するのは難しい。100点。