吸血鬼

カール・テオドア・ドライヤー、1932。怖い映画なのだが、ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』のように親子連れで楽しめるような汎用性はない。物語の語りの部分はかなり雑に処理されている。しかしこの映画が物語映画なのかどうかすらよくわからない。芸術的な映画であることだけは確かだ。トーキーであるのに台詞はほとんどない。しかし音はこの映画の重要な要素となっている。音が映像の立体性を映像の内外から強化し、カメラの前の空間のリアリティを増している。カメラの素晴らしさはこの映画を決定づけている要素だろう。パンやティルトを多用し基本的には長回しなのだが、カメラの動きの微妙な鈍足さが、その他の映画を構成する要素と相まって、どんよりとした不気味な空間を見事にクリエイトしている。それはまるで不可視なものをとらえようとする情念がそのまま映像になってしまったかのようである。それには台詞は必要ないし、通常の時間感覚にとらわれる必要もない。しかしそのことは、表面上の寡黙や饒舌、もしくはカメラワークのことをいっているのではない。もっと深いところの、例えば不可視なものをとらえる際の台詞でありカメラワークのことである。死者の主観ショットが強烈に印象に残っている。設定が奇妙な上にショットがさらに奇妙なのだ。そしてこの映画の影の演出は奇妙なものから怖いものから美しいものまで素晴らしく、ここまで影を操る映画は見たことがない。画質が荒いものを見たのだが、高画質になったものも存在する。この映画は是非とも高画質で見たい。それくらい映像に力があった。100点。