キートンのカメラマン

エドワード・セジウィック、1928。キートンが自身の撮影所を手放しMGMと契約して最初の作品。これ以降キートンはハリウッドのプロダクションやトーキーの台頭によって衰退してゆくことになる。この映画のなかに衰退の兆候を見つけるのは簡単だろう。しかしこの映画には良くも悪くもキートンらしからぬギャグが数多く見られる。体を張らない肉弾戦がいたるところで繰り広げられるのだ。もみくちゃにされること数知れず。とにかく人間たちがわんさかいてバタバタと倒れる。密室でのふたりのシーンなどは象徴的なのだがとにかく人間を密着させるのだ。その他、ひとり野球や全裸でプール、カメラを使った反復するギャグと、その流れで反復する窓ガラス破壊などは、大爆笑というよりは何やってんだこいつというような可笑しさがある。モンティ・パイソンを見たときの心ならずも吹き出してしまうような笑いに近い。見せ場は中国マフィアの抗争といきたいところなのだが、アパートの上下動からの電話口から電話口へのキートンのダッシュだろう。そしてこのアクションの動機づけになっているのはヒロインであるマーセリン・デイへの恋である。この映画は恋物語として、キートンのダッシュのように一直線であり、圧倒的にチャーミングなのだ。マーセリン・デイの寛容さとテキトーさのさじ加減が絶妙だ。恋物語としてもキートンは自由に振る舞えており、マーセリン・デイはそんなハチャメチャなキートンを見事に許容する存在として機能している。この映画はキートンのベスト映画ではないだろう。しかしオルタナティヴな魅力にあふれた愛すべき映画である。100点。