蜂蜜

セミフ・カプランオール、2010。この映画は劇場で見るべき映画だ。つまり闇は闇として描かれ、静けさは静けさとして描かれ、壮大な風景はスクリーンでこそ見るべきなのだ。見えるもの、あるいは見えないものを見る。聞こえる音、あるいは聞こえない音を聞く。この映画は、ただでさえ台詞の少ないワールドシネマ的な佇まいなうえに、吃音の少年は小声でしか話せない。しかも話すシーンは少なく父の不在以降は無言だ。この映画の世界観を伺わせるモチーフとして夢がある。父が夢は人に聞かれてはいけないと言い、少年は父の耳元で夢の話をする。そのとき見る者は少年の夢を聞くことはできない。対する母は普通に夢の話をし、少年は家の外へ逃げる。夢の話に見られる父と母の対照は、神秘的なものへの対照というとらえ方ができる。父が自然を象徴するように、母は家を象徴している。だからラストで少年は森に向かうのだし闇へと向かうのであり、決して母の胸に抱かれることはない。この映画は台詞が非常に少ないのだが、音の映画であるのはもちろん、台詞の映画にもなっている。少年のささやきは自然のささやきと見事に調和している。少年が普通の声で語るふたつの日付のシーンにおける、父と母の距離のとり方、カメラのとらえ方にも父子と母子の関係が見て取れる。しかしそうした関係性の暗示よりも、この映画は圧倒的な自然描写とゆったりとした時間に身を委ね、耳を澄ませ、少年をただ見つめていればそれでいいような気がする。そしてその至福の時間をすごすべき場所はやはり劇場なのだ。劇場空間と映画空間の幸福な関係がうらやましくなるような映画だ。95点。