救命艇

アルフレッド・ヒッチコック、1944。ヒッチコックによる戦時下の船上の密室劇。カメラも船から出ることなく撮影したらしい。この映画の心理描写やヒューマニズムというのはそれほどおもしろく感じなかった。いわんとするところはおもしろい。つまりスタインベックの原作小説にも書かれているおもしろさだと思うのだが、それをうまく描写しきれていないような気がした。タルラー・バンクヘッドの台詞ひとつに託しすぎているような気がするのだ。タルラー・バンクヘッドの圧倒的な存在感は映画を通じてその質が変化してゆくのだが、どの過程においてもエレガントで素晴らしかった。それにカメラやタイプライターや毛皮のコートやブレスレットや化粧などはすごく効いていた。バンクヘッドはお高いモノをどんどん剥ぎ取られてゆくのだが、物質主義的な側面を見せながらも決してそちら側に陥ることがない。その優雅な佇まいは不安定な救命艇を安定させるに十分なものだった。あとはナチの船長ウォルター・スレザックということになると思うのだが、このキャラクターと鏡としての機能性がいまいちよくわからなかった。優秀なナチの船長はサヴァイヴする力が強い。なぜ強いかといえばサヴァイヴに善悪を持ち込まないからだ。問答無用の悪者にしなければならないご時世もあるのだろうが、非情な男だ。そのナチを鏡のように使ってアメリカ人たちが描かれているわけなのだが、鏡が悪いのか反射するほうが悪いのか、どうも対照させるにしては強度不足に感じた。ただ安易なプロパガンダ映画になってはいないところにこの映画の奇妙な魅力があるような気がする。90点。