南極料理人

沖田修一、2009。商業映画第一作目。南極に男8人を集めておきながら群像劇とはならない。独特のオフビートな温度感が群像劇による熱を嫌っているかのようだ。隊長きたろうの存在感のなさは群像劇回避の象徴として機能している。2011年の『キツツキと雨』では役所広司が仏様のように見えたものだが、この映画では堺雅人がその役割を見事に演じている。彼のこころの状態がそのまま映画になったかのようだ。映画の尺が少し長いような気がするのだが、南極滞在の長さを表現するのにはこれくらいは必要なのかもしれない。そう思わせるだけの説得力はあったのだが、宇梶剛士のくだりはまったく必要ないような気もした。物語は人物の内面に深く侵入しない。映画のはじまりから最後の食卓まで、南極ではいろんなことが起きる。いろんな人のいろんな思いが語られる。しかし信頼や不信など人と人との関係性を描くことを極端に避けているし、シリアスな思いも語られることはない。だから最後の食卓まで見ても8人の人物から見えてくるものは少ない。それだけこの映画には劇的ではないのだ。劇的な状況よりも喜劇的な状況に重きが置かれ、その喜劇的な状況はかなり低い温度感で語られる。しかしその劇的ではないドラマのなかで8人がバラバラになることはない。まず南極という極地があり、さらに決定的となるのが食卓や食事であり、そこで8人を必然的に集団化させているのだ。これは擬似的な家族の風景といえるだろう。この映画は堺雅人を軸に、並行する擬似的な家族と本物の家族を類似させ、それを反復させることで家族の美しさが描かれているのだ。95点。