円卓 こっこ、ひと夏のイマジン

行定勲、2014。西加奈子の小説「円卓」の映画化。少女こっこのひと夏の成長をユーモアを交えて描いている。小説は独特の三人称で書かれており、それが物語にリズムをもたらしていた。でもそれは映画にそのまま移行できないから難しい映画化になると思っていたのだが、伊藤ちひろによる脚本が思いの外素晴らしい。小説の語りの部分のユーモアを映像作劇として見事に転化させており、物語自体も削ぎ落としたり残したり足したりと感心するほど鮮やかにやってのけている。そしてこの映画を決定づけているのは芦田愛菜の演技に他ならない。芦田の演技らしい演技は子役というイメージを超えるものがあり、それによりこの映画は子どもの映画というイメージを簡単に超越してしまっているのだ。芦田の演技がなければ、家族を含め大人と対峙したこっこと、子どもと対峙したこっこのフラットな関係性は生まれなかっただろうし、そこをフラットに描けなければ、大人対こっこは説教臭くなり、大人になろうとするこっこは、より教訓めいたものになってしまう気がする。また芦田の演技にはスピード感とそれに伴う情報量があり、それが映画をシンプルかつスマートなものにしていた。ただ芦田芦田ではなくもうひと押し何かほしいと感じたのだが、まあよくできた商業映画でした。95点。

ドラゴンゲート 空飛ぶ剣と幻の秘宝

ツイ・ハーク、2011。67年のキン・フー『残酷ドラゴン 血斗!竜門の宿』のリメイク。ツイ・ハーク&ジェット・リーが久々にタッグを組んだ、空飛ぶ3D武侠映画。これは娯楽大作だから3Dで楽しみたかったところなのだが残念ながら2Dで見た。この映画の登場人物には、空を飛べるキャラクターはいないのだが、やたらとみんな空中戦をやりたがる。横移動ではなく縦移動をやりたがる。それはまるで人間が古来持っていた翼を復古しようという試みのようにも見える。それほどまでにこの映画において飛ぶという行為は重要な要素となっている。当然撮影もCG全開で空飛ぶ撮影をしている。映画の前半は腹の探り合いをしているのだが、後半になるとよくあるヒーロー物のようにキャラクターが立ってくる。そして後半一気に娯楽チャンバラ時代活劇となればよいのだが、この映画、そう簡単にはいかない。ストーリーには明確な目的があり、登場人物たちはそれにしたがって動いている。しかしその目的はなし崩し的なものになっていく。そして喪失感バリバリの人間ドラマが表出するのだ。それは先の例でいえば翼を欠落した人間たちのドラマであり、飛べない鳥たちのドラマであるようにも見える。端から負け戦をしているような無常観。ただそういった狙いがあるのだとすれば、もっと行き止まりの行き詰まり感がほしかったところだ。90点。

ストロベリーショートケイクス

矢崎仁司、2006。どこにでもいそうな痛んだ若い女性4人の物語。エンタテインメントとはかけ離れたそのスタイルは、痛んだ女性の共感を生むのかどうかはわからないのだが、少なくとも映画としての佇まいはものすごく勇敢なものであり、こんな映画を作れる人間や環境があるというのは素晴らしいことだと思った。辛抱強く遠くからそっと見守るような演出は、一見退屈しそうに見えるのだが、じわじわと効力を発揮する。4人の女性には誰ひとりとして共感することはなかったのだが、見守る目を通して彼女たちを見たとき、その目に共感を覚えるのだ。ここはアップが必要だろうとか、ここはもう少し短くできるなとか、そういったが意見を物ともしないような頑固さや、やさしさが映画全体に貫かれており、その勇敢な姿勢によって女性たちの存在が保証される。逆もまた真なりで、そういう女性たちがいるからこそ勇敢な姿勢で映画を撮ることができたのかもしれない。多用される女性たちの独り言に耳を傾け、多用どころか映画の軸ともいえるロングショットで遠回しに見つめながら、女性たちのこころに寄り添う。そして最後に映画は素晴らしいラストシーンを用意してくれる。台詞回しが下手くそだとか、説明的すぎるだとか、そういう部分はたしかに感じたのだが、映画の根本を揺るがすようなものではなかった。95点。

ラブバトル

ジャック・ドワイヨン、2013。父親が死んで故郷を訪れたサラ・フォレスティエは、ピアノを相続したかったのだが姉夫婦がいてうまくいかず、昔いい仲になりそうになったジェームズ・ティエレのところを訪れる。そっからはもうラブバトルの開始である。この映画に見られる情念の肉体化というのはドワイヨンの映画作家としてのテーマにもなっていて、そのスタイルはカサヴェテスにも通じるものがある。この映画の情念はかなり常軌を逸した強度を持っており、それゆえにほとんどがラブバトルのシーンのみによって映画を成立させてしまっている。葛藤にまみれた前半は台詞も多いのだが、それが徐々に少なくなり、バトルの深度が深まると、台詞は必要ではなくなりバトル自体が愛の交歓となっていく。そのさまはひたすらに美しい。しかしこのバトル、あまり背景の説明がされていない。昔いい仲になりそうになったふたりであり、女は男に父の影を見ている。そのようなことは、さらりと提示されるだけで、父から愛されなかった女の愛の復讐劇、というような構図は必要不可欠な要素ではなく、ただバトルによる関係性の変化を映画はひたすらにとらえていくのだ。そして脱げば脱ぐほどに見えてくる、肉体の動物的な躍動の美しさ。ふたりと共にかなりバトっていたカメラも見事な仕事っぷりだった。95点。

ONCE ダブリンの街角で

ジョン・カーニー、2006。ダブリンの街角で男と女が出会う。男はストリート・ミュージシャンで女はチェコからの移民。そして女はピアノが弾ける。男は元カノを引きずりまくっていて、女にはチェコに旦那がいる。ふたりの関係は良好なままだが決して深い関係になることはない。そんなふたりの関係性が音楽を通して語られるとき、この映画の本領発揮となるのだ。男を演じるのはアイルランドのバンド「The Frames」のグレン・ハンサード。女はチェコのシンガーソングライター、マルケータ・イルグロヴ。監督のジョン・カーニーは「The Frames」の元メンバーというのだから、音楽モノとしては頼もしい限りの布陣だ。撮影はすべて手持ちで、ロングショットを多用している。そこに映る人々はエキストラではなくダブリンの街角の人々なのだろう。そして主演のふたりには役名すらない。だからこの映画からはダブリンのリアルと幻想の両方が見えてくるのだ。またドキュメンタリー的な撮影は音楽の劇的な部分をうまく抑制している。それでも、女が歌いながら街を歩くシーンは、ほぼ唯一カメラが男から離れるシーンでもあるのだが、ミュージカルのようなファンタジックな美しさがある。この映画は、悪い奴がまったく出てこない。謙虚な演出がとても心地よく、小さな奇跡を捉えた素敵な作品となっている。95点。

リアル鬼ごっこ

園子温、2015。 基本的に物語が破綻しており不条理劇といえなくもない。この映画の前半は、男性の欲望から逃げる女子高生の逃走劇といったような展開で物語は進行していく。しかし男性は終盤にしか登場しないため、男性的な部分は風が担っていたり、カメラが担っていたりする。そのため下劣な性的描写に陥ることなく女子高生の逃走劇がはじまるのだ。しかし不条理劇だから逃走の明確な意味付けはなされていない。主演のトリンドル玲奈の一挙手一投足が素晴らしい。演技がかっておらずとてもリアルなのだ。すごく不安定な足取りや表情を見ていると危なっかしくて仕方がないのだが、この映画では桜井ユキという補佐役を配置しているから、トリンドルの魅力を思う存分堪能できる。後半はトリンドルが篠田麻里子に変身して真野恵里菜に変身して、最後にトリンドルに戻る。この配役の変更はかなり疑問だった。トリンドルが走る、というのがこの映画の軸だと思っていたからだ。トリンドル以外は脇役扱いだったし、それならトリンドルがやればいいんじゃないかと思った。しかしトリンドルがいなくなることで、物語は混沌とした不条理劇の度合いを増していく。それがラストの美しさを際立たせているともいえる。トリンドルをとにかく動かして、それを空撮や俯瞰ショットなどを用いて撮る。そのスタイルには明確なヴィジョンが見えた。90点。

MAD探偵 7人の容疑者

ジョニー・トー、ワイ・カーファイ、2007。マッドな元刑事が元部下から捜査の協力を求められる。その前に伏線が張ってあるように、犯人はすぐに浮かび上がる疑惑の刑事だ。それ以外に疑惑の人物なんて登場しない。ラストで物語上の見せ場は登場するものの、この映画は物語映画としての体裁をほとんど成していない。物を語るのがマッドだっていうのもあるのだが、物を語ることのプライオリティが低いのだ。映画はひたすらに映画的な遊戯を高レベルな娯楽として提供している。映画形式の原則にのっとり、類似や反復、差異やヴァリエーションといったものを用いて見る者を魅了しまくるのだ。マッドな探偵ラウ・チンワンの目には、人間の内面がヴィジュアル化したり、いない人間が見えたりする。これは特殊能力なのか、ただマッドなだけなのかは曖昧だ。しかしそれによって映画の世界は通常の世界とラウ・チンワンの世界のふたつが存在することになる。このふたつの世界、ふたつのフィクションが交錯する演出が見事なカッティングによって表現されている。この映画のすごさは、全編を通じて映画の持つダイナミズムに満ち溢れているところで、だからダレることも一切なくあっという間に時間が過ぎてしまった。非常に映画らしい映画であり、ふたりの監督の連携も良好であったように見えた。95点。