顔たち、ところどころ

アニエス・ヴァルダ、JR、2017。アニエス・ヴァルダとグラフィティアーティストのJRのふたりが名もなき人々を素材にした巨大ポートレートを作りながらフランスの田舎町を旅するロードムービー的なドキュメンタリー映画。まず、JRの優しさとヴァルダの持つ軽やかさが映画全体を覆っている。まるでエッセイのような映画だ。ふたりが放つ独特の空気感があり、飄々としていて、やさしくて温かい雰囲気に満ち溢れている。そこは他の映画とは決定的に異なる部分で、この映画の最大の魅力といえるだろう。田舎の名もなき人々である被写体を浮き上がらせるのは、まずJRの作品があって、それとヴァルダらしい洞察力のある人間観察というものがあるのだが、それは分業ではなく共同作業によって生み出されている。しかし共同作業であることをあえて強調もしないから、あまり意識することもない。ドラマが少ないとは思うのだが、それでもアンリ・カルティエ=ブレッソンの墓参りや、一夜にして消えた海辺のギイ・ブルダンの写真などはインパクトがあった。ルーブル美術館でのゴダールへのオマージュがあり、JRはゴダールの類似としても描かれ、最後にゴダールに会いに行くのだが、そこはさすがにハラハラする展開が見られた。なにはともあれこの映画の雰囲気、そしてヴァルダが醸し出す雰囲気は、とてもチャーミングで幸せな気分にさせられた。95点。

スリー・ビルボード

マーティン・マクドナー、2017。何者かに娘をレイプされて殺害されたフランシス・マクドーマンドが、解決しない事件への抗議のために3枚の広告看板を設置するするところから映画ははじまる。しかし物語は犯人探しのベクトルへと進むことがほとんどない。そのあたり、大胆かつ予測不能な脚本が本当に素晴らしい。善人と悪人をバッサリと区別したりはしないし、登場人物の行動もかなりトリッキーでありながら、映画的な役割をきちんとこなしている。これにはキャスティングの妙もあるだろう。ウディ・ハレルソンだからこそトリッキーな状況は軽くいなせるのであり、サム・ロックウェルは変化を見せるのだが、どうせ変化するんだろうなと最初から思わせぶりだ。そこをしっかりと乗り越えているのだから、脚本も演技も見事という他ない。彼の存在が物語の傍流から本流へと誘われ、ラストへと至る流れは本当に美しい。そしてフランシス・マクドーマンド。映画はもちろん、アメリカを象徴するかのような存在感。トリッキーで、激情したり冷静だったり優しかったり善人だったり悪人だったりするのだが、見事にわからないというか、顔面で語るというか、共感をいなしたりぶった切ったりしながらも、つねに共感の近くにいるようなキャラクターを見事に演じていた。ラストが非常に良くて、暗転したときにはうれしくなってしまった。100点。

バニシング・ポイント

リチャード・C・サラフィアン、1970。車の運び屋コワルスキーはデンバーからサンフランシスコまで車を運ぶのだが、友人と15時間以内で届けるという賭けをした。全速力で飛ばすコワルスキーと追う警察という単純なあらすじと、深いテーマを併せ持ったニューシネマの代表的作品である。特異な点はコワルスキーが狂気の爆走野郎ではないという点だろう。カーチェイスして川に落ちたヤツの安否を確認したり、ヒッチハイカーを簡単に車に乗せたりする。道中でコワルスキーのキャラクターは肉付けされていくのだが、警官時代に上司のレイプを止めたことと、恋人が死んだことが強調される。警察は悪として定義付けられ、恋人の不在はこの爆走にかなりの影響を与えているように感じた。もうひとつ強調されているのは、ラジオDJとの関係に代表されるホモソーシャルな心の交流である。男の絆的な関係があちこちに散見されるなか、ラジオDJとは会うこともなく心を通わせていく。そしてコワルスキーはヒーローとなる。一般的なヒーロー像とはかけ離れたコワルスキーの温和さが、独特のホモソーシャルな雰囲気を作り出している。警察権力には従わないコワルスキーなのだが、最後には消失する。映像として単純に見れば自爆をする。ここにはいろんな解釈をぶち込めるだけの説得力がある。あとはもう少し音楽のセンスがよければ最高だった。95点。

仁義

ジャン=ピエール・メルヴィル、1970。あらすじがよくわからない部分があった。とくに元警官とか刑事とかヤクザとか悪友とか、その類がいまいちよくわからない。アラン・ドロンとジャン・マリア・ヴォロンテだけはすんなりとわかった。極端に台詞を排除しているからというのもあるのだが、人物相関図や関係性が描き切れていなかったように思う。台詞が少ない分、映像で魅せるというのは十分すぎるほど出来ている。これはアンリ・ドカエの撮影の素晴らしさによるものだ。アンリ・ドカエはどの映画でも素晴らしいのだが、この映画では顕著にその良さがあらわれている。パンやズームが多用され、人物のトラッキングも素晴らしい。冷たい色合いの映像も見事だ。そしてこの映画で最大のポイントとなっているのが、メルヴィルによる扉の演出である。アンリ・ドカエは見事な簡潔さで扉を活かした画を作り上げている。アンリ・ドカエが素晴らしすぎていくらでも見ていられるといっても過言ではないような映画なのだが、いかんせん渋すぎる、いやしょぼすぎる部分があるのは否めない。最大の見せ場である強盗シーンが上手くまとまっているとは思えないし、その後もズルズルとまとまりに欠ける。ラストの演出プランはどうなのだろうと疑問に思ってしまうほどだ。それでもやはり多くの部分で映像の力には圧倒されるものがあった。95点。

ザ・スリッツ:ヒア・トゥ・ビー・ハード

ウィリアム・E・バッジリー、2017。映画としてはよくあるタイプの作りになっている。過去の映像を交え、現在の証言で外堀を埋めていく。しかしながら、これはスリッツのドキュメンタリーなのだ。スリッツ以前と以降では、女性のバンドはぜんぜん違うものになった。ビキニ・キルもスリーター・キニーもプッシー・ライオットもスリッツがいなければ存在しないのだ。そんな偉大なバンドなのに映画を見てみると世に受け入れられたわけではないらしい。それこそVIPなバンドだと思っていただけにその認識のズレには驚いた。当時の音があまりないのは残念なのだが、映像は結構たくさん見られた。そこで見えてくる姿はアリ・アップを筆頭にかなりポップでエンターテイナーだということだ。この映画の映像以外にもたくさんの映像を見てきたのだが、こんな自由にやりたいことをやってるバンドにはめったにお目にかかれない。そしてその自由さは結構真剣に追求していたことがこの映画からはわかる。アリ・アップの証言不在で進む映画は、スリッツのイメージと憎いほどにピッタリあっていて、スリッツらしいドキュメンタリーになっている。字幕が多くて追いつけなかったから、何度も見られそうでファンとしては嬉しい限りだ。95点。

シティ・オブ・ゴッド

フェルナンド・メイレレス、2002。悪名高きブラジルのリオのスラム街を、地べた視点で捉えたクライム・ムービー。抜群に冴え渡る視覚的効果を軸に、早いテンポで最後まで緩むことなく突っ切ってしまう。もちろん物語展開や、視覚に限らず聴覚による効果も秀逸だ。この映画は実話ベースの物語で、スラムの若きギャングたちの年代記が描かれているのだが、現実性と虚構性が見事に融和している。ヒリヒリするようなリアリティを感じさせながら、極上のエンタテインメント映画に仕上がっているのだ。もちろん視覚的効果は90年代的なものを大いに感じさせるし、ドキュメンタリー的手法とポップな映像感覚なんて既視感ありありだ。でも映画の各パートがこれほどまでに上質な仕事をしていて、その連携もバッチリという映画にはなかなかお目にかかれない。演者は顔面の破壊力で勝負といったところなのだが、やはり少年時代のリトル・ダイスが圧倒的だ。大人になると若干インパクトに欠けるものがあった。メガネの相棒が良かっただけに残念だった。拳銃と少年青年の危ない関係がこの映画の雰囲気を作り出している。フィジカルな暴力なんてほとんど登場しない。そのかわり他の映画に比べて、銃を手に入れ、銃をぶっ放すタイミングが異様に早い。現実離れした現実というようなものを、映画表現に落とし込む手腕には脱帽した。100点。

八日目の蝉

成島出、2011。原作小説を読んでから映画を見た。映像ってすごいなと思ったのは誘拐犯である永作博美と、20年後の被害者である井上真央が似ているということだ。顔が似ている。そして映画は小説とはちがって、20年前と現在を平行して描いている。行為が反復されるなかで見えてくる類似や対照といったものは、永作博美と井上真央の顔の類似によって効果が強化されている。映画としては見せ場をあえて抑制してサスペンスなどは発動せずに描いている。この見せ場の抑制はよくわかるのだが、ではそれによってなにが強調されているのかといったら疑問が残る。小豆島のシーンに限らずこの映画はかなりのんびりした展開を見せる。永作博美の逃走劇ですらかなりのんびりしている。そういう演出は効果的な部分もあるのだが、いかんせん二時間半映画であり、二時間半があっという間に過ぎるような映画ではなかった。映画でも小説と同様に男性は排除されるのだが、写真館の田中泯だけは異質な存在感を放っており、写真館のシーンは映画オリジナルの見せ場となっている。釈放後の永作博美の痕跡も写真館にのみ存在する。だから当然のことながらそこが分岐点となり映画のふたつの平行するラインは変化を見せる。この終盤の演出はとても見応えがあった。ただ娯楽映画としては、サスペンスでなくてもいいから、巧みな演出でもってもう少し惹きつけてほしかったところだ。90点。