仁義

ジャン=ピエール・メルヴィル、1970。あらすじがよくわからない部分があった。とくに元警官とか刑事とかヤクザとか悪友とか、その類がいまいちよくわからない。アラン・ドロンとジャン・マリア・ヴォロンテだけはすんなりとわかった。極端に台詞を排除しているからというのもあるのだが、人物相関図や関係性が描き切れていなかったように思う。台詞が少ない分、映像で魅せるというのは十分すぎるほど出来ている。これはアンリ・ドカエの撮影の素晴らしさによるものだ。アンリ・ドカエはどの映画でも素晴らしいのだが、この映画では顕著にその良さがあらわれている。パンやズームが多用され、人物のトラッキングも素晴らしい。冷たい色合いの映像も見事だ。そしてこの映画で最大のポイントとなっているのが、メルヴィルによる扉の演出である。アンリ・ドカエは見事な簡潔さで扉を活かした画を作り上げている。アンリ・ドカエが素晴らしすぎていくらでも見ていられるといっても過言ではないような映画なのだが、いかんせん渋すぎる、いやしょぼすぎる部分があるのは否めない。最大の見せ場である強盗シーンが上手くまとまっているとは思えないし、その後もズルズルとまとまりに欠ける。ラストの演出プランはどうなのだろうと疑問に思ってしまうほどだ。それでもやはり多くの部分で映像の力には圧倒されるものがあった。95点。

ザ・スリッツ:ヒア・トゥ・ビー・ハード

ウィリアム・E・バッジリー、2017。映画としてはよくあるタイプの作りになっている。過去の映像を交え、現在の証言で外堀を埋めていく。しかしながら、これはスリッツのドキュメンタリーなのだ。スリッツ以前と以降では、女性のバンドはぜんぜん違うものになった。ビキニ・キルもスリーター・キニーもプッシー・ライオットもスリッツがいなければ存在しないのだ。そんな偉大なバンドなのに映画を見てみると世に受け入れられたわけではないらしい。それこそVIPなバンドだと思っていただけにその認識のズレには驚いた。当時の音があまりないのは残念なのだが、映像は結構たくさん見られた。そこで見えてくる姿はアリ・アップを筆頭にかなりポップでエンターテイナーだということだ。この映画の映像以外にもたくさんの映像を見てきたのだが、こんな自由にやりたいことをやってるバンドにはめったにお目にかかれない。そしてその自由さは結構真剣に追求していたことがこの映画からはわかる。アリ・アップの証言不在で進む映画は、スリッツのイメージと憎いほどにピッタリあっていて、スリッツらしいドキュメンタリーになっている。字幕が多くて追いつけなかったから、何度も見られそうでファンとしては嬉しい限りだ。95点。

シティ・オブ・ゴッド

フェルナンド・メイレレス、2002。悪名高きブラジルのリオのスラム街を、地べた視点で捉えたクライム・ムービー。抜群に冴え渡る視覚的効果を軸に、早いテンポで最後まで緩むことなく突っ切ってしまう。もちろん物語展開や、視覚に限らず聴覚による効果も秀逸だ。この映画は実話ベースの物語で、スラムの若きギャングたちの年代記が描かれているのだが、現実性と虚構性が見事に融和している。ヒリヒリするようなリアリティを感じさせながら、極上のエンタテインメント映画に仕上がっているのだ。もちろん視覚的効果は90年代的なものを大いに感じさせるし、ドキュメンタリー的手法とポップな映像感覚なんて既視感ありありだ。でも映画の各パートがこれほどまでに上質な仕事をしていて、その連携もバッチリという映画にはなかなかお目にかかれない。演者は顔面の破壊力で勝負といったところなのだが、やはり少年時代のリトル・ダイスが圧倒的だ。大人になると若干インパクトに欠けるものがあった。メガネの相棒が良かっただけに残念だった。拳銃と少年青年の危ない関係がこの映画の雰囲気を作り出している。フィジカルな暴力なんてほとんど登場しない。そのかわり他の映画に比べて、銃を手に入れ、銃をぶっ放すタイミングが異様に早い。現実離れした現実というようなものを、映画表現に落とし込む手腕には脱帽した。100点。

八日目の蝉

成島出、2011。原作小説を読んでから映画を見た。映像ってすごいなと思ったのは誘拐犯である永作博美と、20年後の被害者である井上真央が似ているということだ。顔が似ている。そして映画は小説とはちがって、20年前と現在を平行して描いている。行為が反復されるなかで見えてくる類似や対照といったものは、永作博美と井上真央の顔の類似によって効果が強化されている。映画としては見せ場をあえて抑制してサスペンスなどは発動せずに描いている。この見せ場の抑制はよくわかるのだが、ではそれによってなにが強調されているのかといったら疑問が残る。小豆島のシーンに限らずこの映画はかなりのんびりした展開を見せる。永作博美の逃走劇ですらかなりのんびりしている。そういう演出は効果的な部分もあるのだが、いかんせん二時間半映画であり、二時間半があっという間に過ぎるような映画ではなかった。映画でも小説と同様に男性は排除されるのだが、写真館の田中泯だけは異質な存在感を放っており、写真館のシーンは映画オリジナルの見せ場となっている。釈放後の永作博美の痕跡も写真館にのみ存在する。だから当然のことながらそこが分岐点となり映画のふたつの平行するラインは変化を見せる。この終盤の演出はとても見応えがあった。ただ娯楽映画としては、サスペンスでなくてもいいから、巧みな演出でもってもう少し惹きつけてほしかったところだ。90点。

スティング

ジョージ・ロイ・ヒル、1973。舞台は1930年のシカゴ。詐欺師ロバート・レッドフォードは、相棒をマフィアのボスに殺され、相棒の友人ポール・ニューマンとその仲間たちと共にマフィアに復讐をするという物語。かなり重たい、激しくてタフな物語展開が予想されるのだが、映画の雰囲気はチャーミングとでもいいたくなるような痛快コメディ作品になっている。ただ、集中力の問題もあり、登場人物の関係性がイマイチ理解できなかった。詐欺師、マフィア、殺し屋、警官、FBI、そんだけなのだが混乱した。吹替版ならもう少し理解できたと思う。芸術映画でもなんでもないから、吹替版で十分だろうし、そのほうがエンタテインメントとしては楽しめるような気がした。ヒッチコック的なグローブのクローズアップや主観ショットの使い方など、サスペンスとして見るべきものはある。でもこの映画の一番の見所は「騙す」ということで、見る者が騙されたり、マフィアのボスが騙されるのを見たりと、そういうことがとても大胆で痛快で滑稽に描かれているのだ。そして時代設定の為せる技ともいうべき気品漂う上品さ。詐欺師たちの仕事っぷりも最高である。この映画は、監督と主演の二人が『明日に向って撃て!』と同じで、若きロバート・レッドフォード目当てで見たのだが、『明日に向って撃て!』の彼ほど惚れることはなかった残念。95点。

ニーナ・シモン〜魂の歌

リズ・ガーバス、2015。Netflixによるニーナ・シモンの長編ドキュメンタリー。音楽的なこと、例えばアルバムのリリースだとか、バンドメンバーのことなどはあまり語られず、ライブが中心になっているのだが、じっくり聴かせることもあまりせず、ニーナ・シモンの後年のインタビューや彼女をよく知る人たちの証言を交えて一気に人生を顧みるという感じの映画となっている。証言者としては長年活動を共にしたギターのアル・シャックマンの発言はすごく興味深かった。あとはニーナ・シモンの殴り書きのような日記がすさまじい。それにしてもこの画面に映るニーナ・シモンの強烈さといったらなかった。「Mississippi Goddam」を歌う映像や冒頭の映像や、パリの安いバーで偽物だと思われながら歌う姿、終盤のモントルーなど、振り幅がとにかく大きすぎて圧倒されるのだ。公民権運動前まではよくあるスターの内面映画にとどまっているのだが、それ以降の映画の展開というかニーナ・シモンの生き様の山あり谷ありはフィクションよりもフィクショナルだった。これは映画の構成力の為せる技だと思うのだが、ライブをしっかり聴かせることをせず、しかしライブを中心に構成していて、そこにニーナ・シモンの音楽と人生が立ち現れてきて、彼女の放つオーラがそのまま映画に乗り移っているような気がした。95点。

赤い河

ハワード・ホークス、1948。この西部劇は、冒頭で「偉大なる牛追いを成し遂げた、ダンソンとマシューの、そして”赤い河とD”の物語である」と文字で表示される。つまりスリリングなシーンが度々あるのだが、結果は最初に提示しているのだ。でもそんなことはお構いなしにこの映画はスリルとサスペンスで時間を調節しながら長い旅をテンポよく描いていく。相変わらず素晴らしいのが、ショットそのものと、それがカットされるタイミングだ。これはハワード・ホークスの映画全般にいえることで、毎度のことながら素晴らしい。やたらと背景に動くものを置きたがる美意識や、昼と夜がほぼ交互にあるのだが、どちらも煙であったり靄であったりが美しい。終盤、ジョン・ウェインとモンゴメリー・クリフトが仲違いするあたりからは見所だらけといってもいいだろう。煙を立てて汽車がやってきて、手前を牛が走ってるショットは見事だったし、ラストのの決闘もまた見事だった。この映画は父子の物語であり、その類似と差異を反復させることによって物語は格段におもしろいものになっている。最後はふたりともヒーローあるいはアンチヒーローとなる決着のつけ方がまた素晴らしく、厳しくなりがちな映画にユーモアを持ち込んでくれたウォルター・ブレナンの好演も光っていた。100点。