スティング

ジョージ・ロイ・ヒル、1973。舞台は1930年のシカゴ。詐欺師ロバート・レッドフォードは、相棒をマフィアのボスに殺され、相棒の友人ポール・ニューマンとその仲間たちと共にマフィアに復讐をするという物語。かなり重たい、激しくてタフな物語展開が予想されるのだが、映画の雰囲気はチャーミングとでもいいたくなるような痛快コメディ作品になっている。ただ、集中力の問題もあり、登場人物の関係性がイマイチ理解できなかった。詐欺師、マフィア、殺し屋、警官、FBI、そんだけなのだが混乱した。吹替版ならもう少し理解できたと思う。芸術映画でもなんでもないから、吹替版で十分だろうし、そのほうがエンタテインメントとしては楽しめるような気がした。ヒッチコック的なグローブのクローズアップや主観ショットの使い方など、サスペンスとして見るべきものはある。でもこの映画の一番の見所は「騙す」ということで、見る者が騙されたり、マフィアのボスが騙されるのを見たりと、そういうことがとても大胆で痛快で滑稽に描かれているのだ。そして時代設定の為せる技ともいうべき気品漂う上品さ。詐欺師たちの仕事っぷりも最高である。この映画は、監督と主演の二人が『明日に向って撃て!』と同じで、若きロバート・レッドフォード目当てで見たのだが、『明日に向って撃て!』の彼ほど惚れることはなかった残念。95点。

ニーナ・シモン〜魂の歌

リズ・ガーバス、2015。Netflixによるニーナ・シモンの長編ドキュメンタリー。音楽的なこと、例えばアルバムのリリースだとか、バンドメンバーのことなどはあまり語られず、ライブが中心になっているのだが、じっくり聴かせることもあまりせず、ニーナ・シモンの後年のインタビューや彼女をよく知る人たちの証言を交えて一気に人生を顧みるという感じの映画となっている。証言者としては長年活動を共にしたギターのアル・シャックマンの発言はすごく興味深かった。あとはニーナ・シモンの殴り書きのような日記がすさまじい。それにしてもこの画面に映るニーナ・シモンの強烈さといったらなかった。「Mississippi Goddam」を歌う映像や冒頭の映像や、パリの安いバーで偽物だと思われながら歌う姿、終盤のモントルーなど、振り幅がとにかく大きすぎて圧倒されるのだ。公民権運動前まではよくあるスターの内面映画にとどまっているのだが、それ以降の映画の展開というかニーナ・シモンの生き様の山あり谷ありはフィクションよりもフィクショナルだった。これは映画の構成力の為せる技だと思うのだが、ライブをしっかり聴かせることをせず、しかしライブを中心に構成していて、そこにニーナ・シモンの音楽と人生が立ち現れてきて、彼女の放つオーラがそのまま映画に乗り移っているような気がした。95点。

赤い河

ハワード・ホークス、1948。この西部劇は、冒頭で「偉大なる牛追いを成し遂げた、ダンソンとマシューの、そして”赤い河とD”の物語である」と文字で表示される。つまりスリリングなシーンが度々あるのだが、結果は最初に提示しているのだ。でもそんなことはお構いなしにこの映画はスリルとサスペンスで時間を調節しながら長い旅をテンポよく描いていく。相変わらず素晴らしいのが、ショットそのものと、それがカットされるタイミングだ。これはハワード・ホークスの映画全般にいえることで、毎度のことながら素晴らしい。やたらと背景に動くものを置きたがる美意識や、昼と夜がほぼ交互にあるのだが、どちらも煙であったり靄であったりが美しい。終盤、ジョン・ウェインとモンゴメリー・クリフトが仲違いするあたりからは見所だらけといってもいいだろう。煙を立てて汽車がやってきて、手前を牛が走ってるショットは見事だったし、ラストのの決闘もまた見事だった。この映画は父子の物語であり、その類似と差異を反復させることによって物語は格段におもしろいものになっている。最後はふたりともヒーローあるいはアンチヒーローとなる決着のつけ方がまた素晴らしく、厳しくなりがちな映画にユーモアを持ち込んでくれたウォルター・ブレナンの好演も光っていた。100点。

初恋のきた道

チャン・イーモウ、2000。ある村で40年間教師をしていた父が亡くなった。息子が帰郷するのだが、母は昔ながらの葬儀をするといって聞かない。そんな母を見て、息子は父と母の恋物語を思い出す。この映画は人生のあるピーク時を見事にとらえている。まず怒涛のごときチャン・ツィイーのクローズアップが素晴らしい。これすなわち遠くを見つめるチャン・ツィイーであり、実際のところ夫になる男との絡みなんてほとんどない。そして結婚してからの生活も描かれない。だからこれは本当に珍しいことなのだが、邦題が素晴らしいと思う。学校近くの井戸と家をチャン・ツィイーは映画のなかで何度も往復する。これはその後40年間、夫が死ぬまで通った道だと息子は語る。40年間もあんな調子で恋していたのだチャン・ツィイーは。そう考えたときに、現在までの40年間が怒涛のように押し寄せてきて、しかしながら、外見とかの問題とかも鑑みて、あの初恋のときが一番輝いていて、映画というものはそういう時期を描くのだなと教えられた。あとは現在の描写が、はじめは過去と対照をなしているのだが、終盤には過去との類似というか、過去があるからこそ現在があると思わせてくれた。現在はどんな形でもハッピーエンドにはならない。しかし映画は現在と過去を類似と反復を用いて交錯させ、過去に戻って行為を反復させながら素晴らしいハッピーエンドに導いている。95点。

しあわせの隠れ場所

ジョン・リー・ハンコック、2009。NFL選手のマイケル・オアーの半生を描いた物語。この映画、バリバリの娯楽映画なのだが、かなりアメリカ的な映画にもなっている。貧富の差、人種問題、偏見などが状況として設定されるのだが、それらは映画で描かれることはほとんどない。放置されるのではなく省略されるのだ。ではなにが描かれているのかといえば狂気に満ちたサンドラ・ブロックの善意や、家族の善意、その善意の押し売りに対するマイケル・オアーを演じるクィントン・アーロンのリアクションの数々だ。こんな善意や奇跡に満ち溢れた映画を無難にまとめるのは簡単なことではないだろう。サンドラ・ブロックが金持ちであることはあまり利用されないし、サンドラ・ブロックが黒人を家に住まわせることも、さほど重要なトピックにはならない。偏見や人種問題や貧富の差といった事柄が省略されることで、この映画はその奇跡的な物語だけを抽出して描くことに成功している。その結果、サンドラ・ブロックとその家族の表情ががいかに輝きつづけているか。クィントン・アーロンがいかに輝きつづけているか。サンドラ・ブロックとその家族のパーフェクトな善意は、家族愛がテーマの映画なのだが、宗教的な幸福感に近いものがあった。95点。

明日に向って撃て!

ジョージ・ロイ・ヒル 、1969。1890年代を舞台にした、実在の銀行強盗であるブッチ・キャシディとザ・サンダンス・キッドの物語。まずポール・ニューマンはポール・ニューマンらしくブッチ・キャシディを演じていていい感じなのだが、ザ・サンダンス・キッドを演じるロバート・レッドフォードがかっこよすぎてぶったまげる。この映画は二人のバディ・ムービーなのだが、二人の相互補完的な関係性がしっくりくるように描かれている。注目すべきはその関係性のあり方だ。まるで現代劇のような関係性であり、西部劇の関係性としてはやわすぎるのだ。映像演出も西部劇からは逸脱しており、バート・バカラックによる音楽も「雨にぬれても」をはじめとして、西部劇らしからぬ音楽の使い方をしている。大規模予算の映画だし、監督は職人的な仕事をしているとはいえ、異色の西部劇という側面からみるとニューシネマ的なのだろうと思う。しかしこの映画をニューシネマとして決定づけているのはラストシーンだ。ありきたりのハッピーエンドを嫌うニューシネマのなかでも、この映画のラストシーンは出色の出来だろう。ここでもポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの関係性がすごくいい。人情劇に陥らず相互補完的関係性を担保にラストまで乗り切ってしまう。ラストショットは、その衝撃という意味では映画史に残るものだろう。95点。

手紙は憶えている

アトム・エゴヤン、2015。アウシュビッツ収容所の生き残りで、認知症を患うクリストファー・プラマーが、同じ施設にいる同じく生き残りのマーティン・ランドーの手引きでナチに復讐をする物語。でも物語は最後にどんでん返しが待っていて、実はクリストファー・プラマーは収容所の生き残りではなくナチの親衛隊で、復讐相手もナチの親衛隊で、陰で糸を引くのが本物の収容所の生き残りマーティン・ランドー、ということになる、らしい。で、脚本がよくわからなかったのだが、プラマーは自分がナチだと知っていたことが最後に明かされるが、これは嘘なのだろうか。で、すべては認知症の症状であるならば、プラマーは自分が収容所にいたユダヤ人であるという記憶と、自分はナチでユダヤ人を大量殺戮したという記憶があることになるのだが、どこでどうそれらの記憶が交錯しているのかもわからなかった。交錯はしていないのだろうか。わからない。ラストのどんでん返しまではおもしろい映画だと感心して見ていた。認知症ゆえに史上稀に見る頼りない殺し屋となったプラマーが、綱渡り状態で男を追うサスペンス。もったいぶることもせず、スマートな演出にも好感が持てた。しかし、脚本が難しすぎてラストのどんでん返しの説明がわからず、映画の感慨もふっ飛んでしまった。もう一度見れば理解可能なのかもしれないが、見ることはないだろう。90点。