抱擁のかけら

ペドロ・アルモドバル、2009。冒頭から当然のように扱われる性の描き方の大胆さや、キッチュな色彩を帯びた映画内映画などに、アルモドバルらしさを垣間見ることができる。ただ、いわゆるアルモドバル印の映画という感じではなく、一般的な映画のテイストとアルモドバルの持つ異質さがほどよくブレンドされているという印象だ。登場人物の持つビデオカメラの映像が、とても有効に使われている。それは隠し撮りからのペネロペ・クルスのアテレコシーンであったり、ラスト付近のキスと手の映像であったりする。このふたつのシーンにもいえることなのだが、この映画は常に不自由さがつきまとう。もしくは壊れたものや失われたものを復元しようとすることの不完全さといってもいいのかもしれない。それは、盲目の主人公であったり、聞こえない声であったり、壊された映画であったり、ビリビリに破られた写真であったりする。そうした破壊と復元といったものを、この映画はとても丁寧に捉えている。そしてそれは映画内映画の復元という形で象徴される。この映画には常に、近くて遠い、もしくは遠くて近い距離感のようなものが存在している。ふたつの時間軸は当然それを意識させるし、ビデオカメラの映像によって示されるラスト付近のキスと手のシーンにおける近くて遠い感じなんかは見事だ。映像の虚構性をうまく利用しており、時間軸の遠い距離と、物理的な近い距離によって圧倒的なシーンになっていた。未完成の映画を復元する確固たる信念はよくわからなかったのだが、ペネロペ・クルスが映画の現在には存在しないということはひしひしと伝わってくるものがあった。95点。

裸のキッス

サミュエル・フラー、1964。コンスタンス・タワーズ、ジャズ、ハンドバッグ、スキンヘッド。それらが織りなすオープニング・シーンの強烈さは、映画の歴史に燦然と輝く金字塔といってもいいだろう。この映画はその衝撃に尽きるいってもいいすぎじゃない。でもそれだけでは少々もったいない気もする。素晴らしいのが光と影の演出と、人物のアップが常に不穏さをはらんでいるところだ。主観ショットも忘れてはいけない。人物のアップは計算され尽くしている不穏さではなく、顔面とカメラの物理的な距離の近さなど様々な要因も考えられる。とにかく顔面アップの不穏さは、明確な演出的意図を持っていない場合も多いように見受けられた。そういう顔が画面いっぱいにひろがるとき、圧倒的な強度を持つことになるのだと思う。この映画がユニークである理由のひとつは、語っていないに顔たちによる語りという部分にあると思う。それにより、結果的にかどうかはわからないが、この映画の作家的な側面が見事に表出している。もちろんローバジェットや時代の状況もこの映画をユニークなものにしている。映画では歌や縄跳びや乳母車やコンスタンス・タワーズの暴力といった反復が多用される。これらの反復は物語とも密接につながっている。ただ物語のほうは、イマイチとまではいわないが突出してはいなかった。衝撃的オープニングから光と影と顔面があり、ほどよいところで衝撃的オープニングが反復され、見せ場の殺しはあっさりというのがよかった。95点。

白ゆき姫殺人事件

中村義洋、2014。ワイドショーやツイッターの人間描写におもしろいものなどあるわけがない。そしてこの映画はよくありがちな、しがらみまみれの女同士の関係の物語だ。最後のどんでん返し的な展開すら想像を超えるものではない。この映画のおもしろさはその女同士のしがらみや、ミステリーが解き明かされていく過程にある。ツイッターはもちろん主役がいないわけだし、テレビですら主役の綾野剛は使えないただの出来損ないだ。生瀬勝久の存在は無責任さの象徴のようだった。その無責任さは、振り返られる井上真央の人生すべてにどどっと押し寄せてくる。その無責任さがトリガーとなって撃たれる人がいる、というような構造をこの映画は全般を通じて持っている。警察が出てこないのもいい。この映画は無責任さのディストピアなのだから。もし警察を無責任に仕立てようとすればそれには責任が必要になってしまう。この映画はとことん無責任にトリガーを引いて撃つような言動が繰り返されなければならないのだ。そうした言動にまみれてからのラストの火の持つ威力が凄まじい。実際こういう世界はディストピアよりも現実世界に近いと思う。そういう危険な現実に有名女優たちが平然と無責任に登場しているのが素晴らしく、ドキュメンタリーの手法を敢えて強調せずに描いているのもまた素晴らしい。あ、そういえば、という有名女優が何人も出ていた。ただミステリーやサスペンスとしてのドキドキは少なく、その分ドキドキせずにのんびり見られるのだが、もう少し演出でもカメラいいからドキドキしたかった。90点。

バクマン。

大根仁、2015。漫画にかける高校生コンビを描いた熱血青春映画。その熱血=労働と過労を描くことにかけては並々ならぬ情熱が捧げられており、フラッシュバックで登場する叔父の宮藤官九郎と、とても高校生には見えない佐藤健は、並行して描かれながら類似していくことになる。佐藤健の相方の神木隆之介はキャラクターとしてよくわからない部分はあった。体育館でのショットが連発されるシーンくらいしか見せ場がなかった。佐藤健とヒロインの小松菜奈の関係性は、ほのかな恋ごころのようなものがあるだけで恋愛に重きは置かれていない。しかし重要な会話シーンである序盤の学校と終盤の病院は見事に演出されていた。学校のシーンではぎこちないカメラポジションによるショットの切り返しがぎこちない雰囲気を強調していたし、病院のシーンではしっかりとカットバックをするのだがカーテンがひたすら揺れている。このカーテンもまた、ふたりの関係性や状況を描くうえで重要なモチーフになっていた。悪人が出てこない映画なのだが、そんななか染谷将太の存在感は素晴らしかった。突然の仲間の団結は染谷将太の存在抜きにはありえなかったし、無敵っぷりを最後まで一貫して崩さないし、天才という設定も漫画チックなキャラクターに陥ることがなかった。全体的にとてもポップな作品で、カメラは動きっぱなしだし、音楽はよく流れるし、CGも多用している。それらのポップな要素は映画を加速していくうえで有効に機能していたのだが、それは外ヅラのようなもので、肝心の中身はといえば、少し物足りなさを感じた。90点。

暗殺のオペラ

ベルナルド・ベルトルッチ、1970。ドキュメンタリータッチの不自然さとフィクションの自然さの相互関係。あるいは英雄と裏切り者、少年と少女、個と集団といったような、反対のものをあっさりと転換してしまう描写。これは物語の構造についてもいえることで、映画はふたつの時間軸があって、その区別ははじめは明確なのだが、徐々に曖昧になっていく。そして演じるという意味が重層的に使われることで、撮影技法としても物語としても、簡単にいえば難解になってくる。しかし、時間軸や物語が曖昧になることで、映画を見るうえでの軸を失うかといえば、そうはならない。軸がぶれたり難解になりすぎたりしないのは、ベルトルッチの演出も大きいのだが、なによりヴィットリオ・ストラーロの美しきカメラワークにある。植物のとらえ方が素晴らしく、奥行きのあるショットの構図や、カメラワークなんかは奇妙なものが多々あるものの極めてエレガントだ。植物についてはラストでダメ押しのように映画をまるごと収束させてしまうのだから、その衝撃たるや尋常ではない。かなり普通のドラマのカット割を避けている印象があり、役者が見ているものを次のショットで主観ショット的に見せてくれることはほどんどない。前半はかなり省略したショット構成が多く、後半はかなり混沌としたショット構成が多い。後半の求心力が凄まじくて、身動きが取れなくなってしまった。100点。

旅情

デヴィッド・リーン、1955。16ミリカメラで、スタッフは4人で、俳優も数名。実際はそんなことはないと思うのだが、前半はそんなノリの映画だ。つまり一歩間違えばロメール的ヴァカンス映画。もちろんそうはなってはいない。それでも当時のハリウッド映画としては格段にフットワークが軽いし、レターサイズの画面は観光写真のようで映画にフィットしていた。ロメールとはちがい、この映画ではラブストーリーをこねくり回してメロドラマにしている。でもやはり前半の、キャサリン・ヘプバーン、ヴェニスに行く!という感じのテイストがたまらなく素敵だった。例えば『リオの男』ほどではないにしても、そういうロケーションの開放感が画面からビビッドに伝わってきた。恋愛映画としては中年女の孤独がヘプバーンの顔面から見事に浮かび上がっていて、それでオッケーという感じがした。実際のメロドラマはかなり真正面から描いていて、何かをきっかけにして何かが起こるとかいうことをあまりしない。恋愛にまつわる事柄に徹することでメロドラマとしての濃縮度は増している。最後で線路を曲げる演出はうまいなと思った。線路が曲がるということは、映画のラインから外れるわけで、最後の車窓からのヘプバーンは、ヴェニスのヘプバーンではなく、オハイオ州のヘプバーンのような気がしたのだ。ここでもヘプバーンは顔の演技だけですべてを語っている。登場は喜劇的だが、さすが大女優といった貫禄を見せて映画から去っていった。95点。

ランジェ公爵夫人

ジャック・リヴェット、2007。冒頭のシーンで提示される壁。それはカーテンであったり鉄格子であったりするのだが、この映画はジャンヌ・バリバールとギョーム・ドパルデューを隔ててしまう壁を見事に描いている。ショットもすごいがカットもすごい。特にシーン終わりのカッティングの絶妙な素早さ。さらには字幕を多用しており、それが入るタイミングもいいし、その字幕があらわす主に時の経過も映画のリズムを形作っている。ウィリアム・リュプチャンスキーのカメラは相変わらず素晴らしい。カメラワークも映っているものもすべていい。計算しつくされた人物の動きとカメラの動きの演出は見事としかいいようがない。音へのこだわりも尋常ではない。ドパルデューの足音やバリバールの歌とピアノを筆頭に、足音、馬車の音、鐘の音、扉の閉まる音などが、ただの音としてではなく演出として効果を発揮している。この映画は文豪バルザックの作品の映画化なのだが、映像演出や音声の演出は、当然ながら原作には同じ形で存在しない。だから映画とはなにか、映画の素晴らしさとはなにか、という疑問に対してこの映画はわかりやすくサンプルを提示してくれる。その洗練された映画技法は斬新ではないが新鮮味がある。そこはやはりリヴェットの演出力のたまものだと思うし、ヌーベルバーグ出身らしいプリミティブさをずっと持っているからだと思う。95点。