逃走迷路

アルフレッド・ヒッチコック、1942。ヒッチコックを順番に見ているのだが、もうすでに飽き飽きしてきたパターンの映画だ。知りすぎていた男が女を連れていろんなところへ逃亡する。そのなかでヒッチコックのアイデアが過剰サービスのように炸裂するのだ。そしてとんでもない見せ場がある。ラストの映画館と自由の女神は凄まじかったし、オープニングの黒い煙もすごかった。しかしこの映画はアイデアが消化不良のまま放置されすぎているような印象を受けた。そうした傾向はヒッチコック映画には往々にしてあるものなのだが、この映画はそれが多すぎた。時代を考えるとプロパガンダの影響だと思うのだが、人道主義的なシーンが多く見られる。それらはとても説明的でいかにもプロパガンダな感じで奇妙な違和感があった。素晴らしい映画館での銃撃戦を見て、この映画を映画館で見た人がうらやましくなった。このシーンは映画館で見ないとその効果を十分に堪能できないからだ。そして有名な自由の女神のシーン。このシーンはほとんどすべてのショットが素晴らしいのだが、一番素晴らしかったのは、破れつつある袖の超クローズアップから、自由の女神を下から超ロングショットであおるカット割だ。中間距離を排することによって、袖の糸から自由の女神へ、最小から最大へカットされたときの驚きは、まさにヒッチコック的演出であり、その演出効果は撮影技法によって見事に最大化されている。モノクロ映像は締まりがあってとてもよかった。ヒロインはいるのだが、役割もロマンスもテキトーだった。90点。

断崖

アルフレッド・ヒッチコック、1941。ヒッチコックにしてはめずらしく役者に助けられているという印象の映画。ケイリー・グラントとジョーン・フォンテインがこの極端な映画に品格をもたらしているのはまちがいない。ナイジェル・ブルースもいい働きを見せていた。この映画は原題である『疑惑』が最後の最後までつづく。ケイリー・グラントは愛する価値のある放蕩大馬鹿者なのか、それとも殺人者なのか。原作では殺人者であり、ヒッチコックも殺人者にしたかったのはミルクのシーンを見てもわかる。しかしハリウッドがそれを許さなかったのだろう。で、最後は取ってつけたようなハッピーエンドで終わる。ケイリー・グラントは殺人者であろうとなかろうと大馬鹿者なわけで、その大馬鹿者を見事に演じている。人を騙しギャンブルに明け暮れ会社のカネを盗んだりとやりたい放題だ。ジョーン・フォンテインはメロドラマ的被害者女性として仰々しくない品のある演技を見せている。だからこのカップルがいっしょにいるのは疑惑があったとしても気持ちのいいものだった。ふたりの最初のキス、二度目のキス、マーダラーの文字、ミルクの階段、眼鏡をかける時間などなど、素晴らしい演出もたくさんある。ケイリー・グラントは殺人者ではなかった。だからハッピーエンドとなっているのだが実際そうは思えない。かなりのアンハッピーエンドだといわざるをえない。すでに崖っぷちにいるのだし、更生には治療というプロセスが必要だろう。ケイリー・グラントは大好きなのだがこの映画の彼には恋しなかった。恋したジョーン・フォンテインもかなりの大馬鹿者だと思う。90点。

ロシュフォールの恋人たち

ジャック・ドゥミ、1967。『シェルブールの雨傘』と立て続けに見たのだが、このふたつの映画は比較してもしょうがない。でも比較すると、形式的な違いがまずある。それにともなう役者の質が違う。まずミュージカルという形式で見ると、『シェルブールの雨傘』において台詞は歌のみで構成されている。とてもストイックで実験的な形式だ。一方、この映画における台詞は通常台詞と歌という一般的なミュージカルの形式となっている。そしてこの映画にはダンスがある。そのような形式的な違いは、選択肢の増加を生み出すものばかりなのだが、この映画はその増加分を目一杯使いまくっている。そもそも脚本から素晴らしい。『シェルブールの雨傘』で見られた安っぽさはなくなり、『ローラ』のように人物が円を描くようなエレガントなドゥミらしい脚本になっている。撮影も素晴らしくロケーション撮影が特にすごい。明らかなセット撮影なんて見当たらないくらいなのだが、クレーンを使ったロケーション撮影が見事だ。後退しながら上昇するショットが反復されるのだが、その反復されるショットは映画を形作るほどのインパクトを持っておりとても効果的である。ロケーションの中心となる広場とカフェは迅速に設定され有効利用されている。街角で一組だけダンスをしたり、逆に一人以外すべての人がダンスをしていたりといった動きも素晴らしい。ミュージカルコメディになるのかわからないのだが、ジーン・ケリーにしても双子のダンスショーにしても、殺人事件にしても大きく扱わないところがなんとも素敵である。100点。

シェルブールの雨傘

ジャック・ドゥミ、1964。まずオープニングクレジットのインパクトと美しさ。これは間違いなく映画史に残る名シーンだ。オープニングクレジットでいえば『レイジング・ブル』も美しくて大好きなのだが、それに匹敵する素晴らしさがある。この映画はよくあるミュージカルとは異なり普通の台詞がない。つまりすべての台詞は歌として発せられる。普通のミュージカルであれば台詞と歌の二層構造が楽しめるのだが、この映画ではそれをなくしている。ミッシェル・ルグランの圧倒的なスコアが台詞を引き出しまくる。通常ではあり得ないくらい音楽が物語に介入しており、かなり実験的な試みだったのではないかと想像する。実際のところ映画はかなりの完成度を誇っている。しかし90分くらいしか持たない。そのあたりに音楽と歌で進行する物語の限界が垣間見えるような気がした。撮影をある程度犠牲にしてまで音楽が優先されており、ここまで極端なものが成功するのだからやはりドゥミとルグランはすごい。物語は結構単純なもので、尻軽ドヌーヴと被害者男性の悲恋の物語だ。尻軽ドヌーヴと被害者男性は序盤で見てられないくらいアツアツになって引き離される。そしてラストで再会するのだが、そのときのドヌーヴの美しさといったらなかった。あんなに美しいドヌーヴがいたら道を踏み外してしまってもいいと本気で思った。しかし被害者男性は道を踏み外すことなくいまある幸せを謳歌するのだ。尻軽とはいえドヌーヴほどの女と大恋愛をして裏切られたら、立ち直れないような気がする。しかしこの映画は立ち直りの成功例を見せてくれた。今後の人生に役立てたいと思う。95点。

ミルドレッド・ピアース

マイケル・カーティス、1945。フィルム・ノワールにはファム・ファタールということで、悲劇の悪女がこの映画にはふたりも登場する。ジョーン・クロフォードとその娘だ。しかし娘のほうは喜劇的にカリカチュアされて描かれるため、そのとばっちりまでジョーン・クロフォードは受けることになる。この娘は、上流階級志向が異常なまでに強く完全にキチガイのレベルに達している。強迫観念としての上流志向にパーフェクトにとらわれており類型化した感情しかない。喜劇だから仕方がないのだが、クロフォードには喜劇性がないだけにそのズレが気になる。クロフォードはその喜劇化した娘を愛し続けることで悲劇のヒロインとなってゆく。この母子の物語にハマればこれは素晴らしい映画になるだろう。脚本には疑問が残る。謎の殺人事件が起こり、回想形式で種明かしの殺人事件までが描かれるのだが、そこにはミステリーなど存在せず、クロフォードの半生記が描かれるのだ。フィルムノワールの回想形式とクロフォードの半生記はとても相性が悪いように見えた。まるでふたつの映画を見させられているような気になってしまうのだ。犯罪について思い出すのは終盤を除けばわずかしかない。だからあとはクロフォードの半生記となっている。クロフォードは独立心が強いのだが、これは当時のアメリカにおける女性の社会進出と関係があるのだろう。そうした様々な要素が強く打ち出されているのだが、それらがうまくまとまっているようには思えない。人物の動きとカメラの動き、人影の演出やシャープなモノクロ映像は素晴らしかった。90点。

眼下の敵

ディック・パウエル、1957。潜水艦モノの定番ともいわれる映画。映画をおもしろくする様々な要素が見事にハマった感じがして相当に楽しめた。スポーツ競技のような心理ゲーム的な部分が娯楽性を持って描かれている。それも決して大きな仕掛けではなく低予算なアイデアが満載なのだ。この映画は戦争が持つスポーツのようなゲーム性を強調させることで見事に娯楽映画として成り立たせている。ただし戦争に対してはかなり言及している。そもそも両軍の指揮官が反戦というか厭戦的であったり、娯楽映画だから殺しまくるといったこともなく、負傷者や死者への敬意も忘れない。そして米軍と独軍は平等に描かれている。そういった戦争に関する事柄はかなりクールに描かれている。高らかに反戦を歌うこともなく娯楽に埋没させたりもしない。この映画のゲームのようなスリルを発生させているものは爆撃などではない。それは心理戦であり、見えない相手との戦いである。それを見事に演出するのがソナー音だ。この映画は音の映画といってもいいすぎではない。ソナー音を筆頭に船内の音、爆撃音、そしてサイレント、さらには歌を歌うシーンまである。駆逐艦と潜水艦という見えない関係から音の重要性が生じるのだが、その状況を映画は見事にとらえている。そしてスポーツのようなゲームを展開させることによって見えてくるのは相手への敬意である。この映画はその部分においてスポーツと戦争を同列に扱う。誰も敵の個人を憎んだりはしない。そこに感じるヒューマニズム的な映画の美学とスポーツマンシップが簡単に共存しているように見えるのがこの映画の魅力になっている。95点。

山の音

成瀬巳喜男、1954。川端康成の小説を水木洋子の脚本で成瀬巳喜男が映画化という凄まじいメンツ。水木洋子と成瀬巳喜男はほとんどハズさない人なわけで、この映画もハズレではない映画になっている。登場人物の類似と対照がこれほどまでに入り乱れる映画もあまりない。当時の社会における男女の圧倒的な差異というのはこの映画でも描かれてはいる。しかしそれを抜きにして語れてしまうくらい類似と対照が入り乱れているのだ。山村聰と上原謙の父子にも類似や対照が見られる。原節子と中北千枝子と角梨枝子にも類似や対照が見られる。そして男女の対照ゆえの平行性が見事に悲しく描かれている。同じセリフの反復もあるし、なにより鎌倉の曲がりくねった細い道の反復が素晴らしい。そしてラストシーンの新宿か代々木かあの辺りの広くて美しいシーンがあると、両方がより一層引き立つことになる。この映画を見たのは二度目なのだが、鎌倉の道とラストシーンは印象に残っていた。この映画と『東京物語』の原節子に見られる類似と対照もおもしろい。部外者としての類似がある一方で、堕胎という決定的な対照によって強い意志を見せる。この悲しき強い意志はさらなる類似や対照を見せるのだが、この映画の登場人物はみんな悲しい。どこか傷んでいるのだ。そして山村聰と原節子の悲しさに見えるプラトニックラブな関係性もまた、類似と対照が入り乱れている。分かり合える友人のようでありながら犯罪者と被害者のような関係でもあるのだ。原作は知らないが水木洋子は原節子の物語として大胆に脚色したらしい。撮影もおもしろくて、この時期の日本映画は常識を逸脱する撮り方をよくやる。95点。