旅路の果て

ジュリアン・デュヴィヴィエ、1939。記憶と忘却、過去と現在、理想と現実、そして生と死。この映画はその狭間を見事に描いている。脚本が素晴らしい。『舞踏会の手帖』のようなエレガントさはないのだが、交わることの少ないふたりの男が対照的に描かれ、それを仲介する男の役回りも見事だ。この映画は、舞台役者専門の養老院が舞台である。養老院にモテ男ルイ・ジューヴェがあらわれることよって物語が動く。しかしジーヴェは自由気ままに過ごし、いなくなったりもする。それをよそに養老院の物語は進んでゆく。抵抗運動を煽る大根役者ミシェル・シモンのシーンなど、見事なシーンがたくさんある。カメラの動きが素晴らしく、映画を躍動させている。ジューヴェとシモンの、ふたりの描かれ方が素晴らしい。ジーヴェは女によって虚栄心を満たし、常に演劇的に高圧的な振る舞いをする。手紙のシーンが見事だ。女からの昔の手紙を自分宛に再送する。そして過去と同じやり口で女を自殺させようとする。それらの反復はジーヴェには現実と舞台の区別がないことを示唆する。同じことを繰り返すのが舞台ならば、人生でも女性関係を筆頭に同じことを繰り返している。だからこそ、代役ばかりで舞台に立ったことがないシモンは、養老院では特別な存在となり、ジーヴェとの対照性も際立ってくる。シモンの埋葬シーンは感動的だ。ふたりの男を仲介する役回りでありながら、実は主役ともいえるヴィクター・フランセンの弔辞は、真実を求めた男による真実の語りとなっており、シモンを強烈に決定づけている。弔辞は演劇への賛歌にまで及ぶ。そこにいないのはジーヴェただひとりである。95点。

霧の波止場

マルセル・カルネ、1938。フランスらしいメロドラマが、フランスらしく詩情豊かに描かれている。細かな描写よりも映画全体を覆うペシミズムが圧倒的だ。逃亡者であるジャン・ギャバンは、港町ル・アーブルで行き場のない人々、つまり逃げられない人々と出会う。ギャバンはそれでも逃亡者としての自分を崩さないのだが、最後に彼も逃げられない人となってしまう。冒頭で犬を助けるギャバンの性格が、最後に災いする形になっている。それにしても、その詩情リアリズムとやらがすごい。パナマというペシミズムの保養地のような波止場の酒場のセッティングが、詩情とリアリズムをいきなり体現してしまう。そして、店の周辺に登場人物全員があっという間にそろってしまう。ギャバンはそこでメロドラマのお相手ミシェル・モルガンと出会う。レインコートの謎の女というのがまたいい感じである。ギャバンは軍服から私服に変装するのだが、そこでもペシミズムが炸裂する。ミシェル・モルガンのペシミズムがまたすさまじい。とんでもない養父がいて、その養父にとんでもないことをされているのだ。被害者女性というメロドラマのヒロインの必須条件を満たしまくっている。そのことが、ギャバンの最後の行動の説得力を強化している。この映画もカルネの同年の『北ホテル』と同様に、映画全体を漂う空気感の演出が見事だ。それを詩情というのかもしれない。ただ、物語をつなぐ重要な役回りを演じるチンピラは、最後に大仕事までするのだが、キャラクターとして無軌道でもなければ軌道にも乗っていない。その不可解なキャラクターが、映画に亀裂を生じさせているような気がする。95点。

夜よ、こんにちは

マルコ・ベロッキオ、2003。イタリアの極左テロ組織「赤い旅団」のメンバーによる、1978年のモロ元首相誘拐暗殺事件を描いた映画。冴え渡る演出が随所に見られ飽きることがない。政治や宗教が渦巻く映画なのだが小難しさはない。物語は誘拐したモロを殺すべきなのか、この犯行は正しいのかと苦悶してゆく女を中心に描かれる。視線を強烈に意識させる映画だ。メンバーのいる家を覗く外からの視線。家のなかの小さな部屋にいるモロを覗き穴から見る視線。主人公の女の職場でのエレベーターの壁を見る人々の目線。そして全知の神のような同僚の男の視線。この男の存在によって視線の定義は拡張し、こころを見通す視線にまで及ぶ。それは端的には思想や思惑の対立としてあらわれるのだが、映画はこころの視線、つまりイメージを具現化する。モロは監禁されているのだが、自由に家をうろつく。それが現実ではないと示唆するのは音楽のみである。終盤、現実と非現実のふたつの物語が並行して語られる映像展開は見事だ。ローマ法王が敬虔なカトリック信者のモロの解放を求めるなか、女以外のメンバーは無意識に十字を切って食事をする。女はモロの脱出を企て成功するが、モロは監禁されており暗殺される。カトリックへの信仰と懐疑をにおわせながら、映画は現実と非現実を別々に描く。非現実の物語は女の物語である。それは、女の理想を描いたのでもないければ、夢を描いたものでもない。女の苦悩や葛藤が映画を揺さぶっているのだ。この映画はストイックな状況をとらえているのだが、その演出によって、非現実のモロのような自由さを感じさせる映画になっている。95点。

万事快調

ジャン=リュック・ゴダール、ジャン=ピエール・ゴラン、1972。商業映画と決別し、「ジガ・ヴェルトフ集団」として映画産業の外側で政治映画を製作していたゴダールが、映画産業の内側、つまり商業映画として製作した政治映画である。その状況がそのまま映画のスタイルにあらわれている。イヴ・モンタンとジェーン・フォンダが夫婦役で出演し、夫婦仲は険悪となるのだが最後にはよりを戻す。しかし、この映画は常に映画の慣例に従うことを避ける。商業映画にはスターが必要だというナレーションがあり、イヴ・モンタンとジェーン・フォンダが配役され、よりを戻す夫婦を示すふたつのショットがあり、ナレーションがその状況を突き放したりする。男女の関係が、映画の慣例に従わない形で描かれる。慣例に従わないという意味では、前半の工場のシーンが最も革新的だろう。しかし、後半に比べ工場のシーンはやや退屈であり、より映画の慣例に従う後半のほうがおもしろい。カメラは常に固定され、動きは上下左右の移動ショットのみで構成される。とりわけ左右に動くショットは多義的に多用される。工場での生産とスーパーでの消費は、流れ作業的な類似が風刺され、それは左右に動くゴダールらしい偏屈なカメラによって強調される。スーパーのシーンでは、左から新左翼の活動がはじまり、右で治安部隊に鎮圧される。カメラに向かって主義主張を繰り返す経営者や組合員などのショットがいくつかある。しかし、カメラの存在が提示されないため、空虚さがとりわけ助長される。政治性自体よりも、政治性から派生した商業性や芸術性や、相変わらずの独創性はとても興味深いものがあった。95点。

モンパルナスの灯

ジャック・ベッケル、1958。モディリアーニの半生を描いた伝記映画。モディリアーニをジェラール・フィリップが演じている。しかし、物語は大胆に脚色されており、いかにもジャック・ベッケルな映画になっている。死の商人の存在が、映画の意味づけを強烈にし、フィクション性もまた強烈に高めている。モディリアーニとは対照の人物であり、接触することはなく背後に潜んでいる。冒頭のシーンが映画を要約している。カフェで絵を売るモディリアーニ。その背後には死の商人がいる。一見なんでもないシーンなのだが、終盤にそれが反復されるとき、見る者は愕然とすることになる。この映画は、夜の闇をとりわけ際立たせる。その演出の頂点となるのが終盤の夜の闇だ。すさまじい舞台がセッティングされ、モディリアーニの背後には死の商人がいる。映画の世界が一変するようなシンプルかつ強烈なシーンである。モディリアーニは、貧乏なのだが絵を売る気がない。それが、絵と女を類似させることで描かれる。自分の女を売るようなことはしたくないのだ。気に入らない絵は破るし女を殴ることもある。そのあたりはベッケルらしい男の映画が垣間見える。モディリアーニにはお金がない。絵以外にはお金を生み出すものがない。しかし絵を売ることを極端に嫌っている。そして健康状態がよくない。自分が死ねば絵は売れると言う。死の商人もそのことを示唆する。モディリアーニがたびたび夜の闇に身を置くことは、彼の死を暗示している。そして冒頭の反復が起こる。男しかいない闇の入口が印象的だ。闇の世界ではじめて、モディリアーニと死の商人は会話を交わすことになるのだ。100点。

神々のたそがれ

アレクセイ・ゲルマン、2013。SF映画。地球より800年時代遅れな惑星に地球人調査部隊が送られ、そのひとりが神として崇められている。この映画は、そのフェイクでダルそうな神をドキュメンタリーの撮影スタイルで密着する。実際にカメラを覗き込む人が大勢いることから、カメラがそこにあることがほのめかされる。カメラはあり得ないポジションから撮影しないし、時間軸を維持しながらカットすることもない。そして、ほとんどは制限された語り口、つまりダラけた神を通して語られる。ゲルマンの前作『フルスタリョフ、車を!』と同様に、物語性はかなり排除されているのだが、それ以外は普通の映画形式であり、いわゆるアート映画ではない。ゲルマンの映画はカメラのポジションが素晴らしいのだが、この映画は密着ドキュメンタリー形式のため、その素晴らしさは封印される。しかし、前作で見られた喧騒的な映像演出はさらなる飛躍を見せている。近距離の撮影であるにもかかわらず、前景と背景の使われ方も極端になっている。常に雨や煙や霧などが立ち込め、狭い前景も大いに利用される。緻密な撮影プランによって構築されるカオスな世界は圧倒的だ。ダルそうな神に焦点を当てた、グロくてダルいディストピアな物語には独特の退廃的美学がある。しかし、物語の起伏や映像のバリエーションの少なさゆえ、3時間という尺はすごく長く感られた。それは、この映画を普通の映画とみなして価値判断しているからだと思う。ゲルマンは普通の映画の文脈でキチガイ映画を作っているのだ。正常な狂人ほど恐ろしいものはない。畏怖の念を抱かせるような映画だった。でもやはり長い。90点。

スイート・スイート・ビレッジ

イジー・メンツェル、1985。チェコの田舎の村が舞台となっている。物語は、知的障害者オチクのプラハ引っ越し話によって均衡が崩れる。均衡が崩れても、牧歌的な村がゆえに、物語は色恋沙汰を交えながら喜劇的にゆったりと語られる。終盤になってオチクはプラハへゆく。そして、オチクの家がオチクの知らぬところで売られようとするとき、オチクが村にもどり物語の均衡がもどることになる。冒頭の道路のシーンは何度も反復される。太っちょのおっさんとオチクが並んで歩き、脇で車とドクターがトラブルを起こしている。それが同じショットの構成で反復される。オチクと車、おっさんとドクターは類似の関係にある。冒頭でそれらはクロスカッティングされ、村自体が規定されてゆく。村人には寛容の精神があり、自由を謳歌しており、ブルジョワへの不信感がある。そんな村人の悲喜こもごもが温かい眼差しで描かれる。この映画は何度も登場する場所が複数あるのにもかかわらず、その位置関係はほとんど説明されない。だからこそ、複数の位置情報を持つ道路が強力に設定づけられる。おっさんとオチクとドクターと車が村を象徴するのであれば、当然のように道路も村を象徴している。道路にあるオチクの家の売却は、村の崩壊を示唆する。それにより、おっさんの行動が生じて物語の均衡が保たれることになる。物語の構造は、Aの均衡状態が崩れBの状態になり、最終的にはA’の状態にもどることが多い。この映画におけるA’の素晴らしきチャーミングさは、反復される道路のシーンによってひときわ輝きを増し、見る者に笑顔と感動を呼び起こすものになっている。100点。