イット・フォローズ

デヴィッド・ロバート・ミッチェル、2014。性や生と死が様々なモチーフによって語られているのだが、テーマが重いだけに、それに耐えるだけの力を持っているとは思えない。それでもこの映画は状況を整理しまくって見通しのいい視界を提供してくれる。大胆なカメラワークが多いのだが、それらが反復されることで映画に落ち着きをもたらしている。スーパークローズアップ、主観ショット、状況を提示するロングショット、回転するショット、真上からのショットなどが、非常に効果的に使われている。学校を排除し、警察を排除し、親を排除することで、ハイティーン映画独特の佇まいを獲得しているのも興味深い。ハイティーン映画といえば車なのだが、この映画では車は超必需品となっている。水はあらゆるところで使われるモチーフなのだが、合点がいかない部分もあった。終盤のプールのシーンももったいない感じはするのだが、『キャット・ピープル』を模しているのがミエミエでおもしろい。映画全体としてはホラー映画やサスペンス映画というよりも、ハイティーン青春映画という印象だ。セックスが死をもたらすという過酷な青春映画。確かに青春においてセックスは大きな比重を占めており、死んでもいいから付き合いたい、死んでもいいからセックスしたいと思うのは自然な流れだ。それがこの映画では本当に死ぬんだから恐ろしい。プールのシーンの過剰な血のインパクトはすさまじかった。それがあったからラストもよくなった。ミニマルな映画にしたのは大正解だと思うし、設定もとてもユニークでおもしろかった。95点。

フレンジー

アルフレッド・ヒッチコック、1972。ヒッチコック映画としては極めて異色の作品といえる。まず脚本の完成度が高く秀逸であり、スタアが出ていない。個人的にはヒッチコックは脚本とスタアで失敗している部分があると思っていて、それがこの映画では役者は映画のなかに溶け込むように存在しているし、ヒロインらしいヒロインもおらず出てくる女優も現代的でありグラマラスさはない。ダブル主演といってもいいキャストもおもしろい。あとは散々警察から逃げてきたヒッチコック映画にマトモな警部が登場する。それまでヒッチコック映画の障害となってきたものがここにはない。それはそれでヒッチコックらしくないともいえる。ある意味で普通の映画に近いともいえるだろう。しかし普通の映画を撮ったときにこそ表出するヒッチコック節がこの映画では炸裂しまくっている。脚本や演者がスムーズに映画を進めるからこそ、ヒッチコックの映像演出の異常さが顕著にあらわれるのだ。ジョン・フィンチが不在となり映画はバリー・フォスターのパートとなる。その導入部の音を使ったショッキングな演出から、カメラが階段から降りてくるような演出は、他の映画でも見られたものだが、この映画では特に効果が有効に作用している。警部と妻ヴィヴィアン・マーチャントの食卓が素敵だ。ここで犯罪推理が展開されるのだが、シーンとしてはマズい料理を風刺することに焦点が当てられる。そのためショットの構成が非常におもしろい。ここでのヴィヴィアン・マーチャントは奇跡的にチャーミングだった。ヒッチコックの映像演出が、良い意味で普通の映画で炸裂している様にすごく興奮した。100点。

マリリン 7日間の恋

サイモン・カーティス、2011。マリリン・モンローは見たことがない。しかしミシェル・ウィリアムズは大好きだからいいとして、この映画にはさらにエマ・ワトソンまで出ている。そして主人公の青年はエマ・ワトソンという女がいながらミシェル・ウィリアムズにハマる。存在自体がすごい女優を演じるミシェル・ウィリアムズと、存在自体が可愛いいエマ・ワトソン。このキャスティングで映画はほぼ決まった。英国映画らしくテキパキと事が進んで字幕についていけないけど字幕なんて読まくてもいい感じだ。この映画はローレンス・オリヴィエ監督主演作『王子と踊子』の撮影のためにロンドンにやってきたマリリン・モンローをサード助監督の立場から見たある程度現実に即したものになっている。特に主人公がモンローにぞっこんになる前までがおもしろい。一歩引いた位置から現場が見られる感じで、ケネス・ブラナーの器用さは笑えてくるし、マリリン・モンローの諸々の問題をサラリと描く手際はとてもよい。しかし主人公がモンローにぞっこんになってからはおもしろさが半減してしまった。ただミシェル・ウィリアムズとの恋がどう転んでもエマ・ワトソンがいるという状況はミラクルな状況であって、そのふたりの女優がいるならこの映画の主人公のように浮足立つのも無理はない思う。そしてその浮足立った感じがそのまま映画のテイストになっている。ミシェル・ウィリアムズが見られて、ついでにエマ・ワトソンも見られるのだからスタア映画としては十分だろう。95点。

引き裂かれたカーテン

アルフレッド・ヒッチコック、1966。音楽がバーナード・ハーマンではなくジョン・アディソンになっており、撮影がロバート・バークスではなくジョン・F・ウォーレンとなっている。特に撮影はずいぶん違う印象を受けた。自然光とまではいかないが照明があまりキツくない。それにドキッとするようなショットの構成が度々見られた。最大の衝撃は唯一の殺しのシーンである農家のシーンだ。殺しのシーンとしてはかなり長いのだが、あちらが優勢になったりこちらが優勢になったりして長くなるのではなく、キッチンにある小道具で殺しがおこなわれるから長くなるのだ。このシーンのショットの構成は極めてヒッチコック的なアイデアに溢れている。この映画はスパイものなのだが、ポール・ニューマンがスパイとしては三流に見える。そういうところはヒッチコック映画の脚本の乱暴さなのか、主演クラスを演出する能力がないのか、いつも残念な形になる。ヒッチコックはジェームス・スチュワートとケーリー・グラント、そしてグレース・ケリーでなければダメなんじゃないかとすら思えてくる。この映画も、ポール・ニューマンとジュリー・アンドリュースが好演をしていたとはとてもいいがたい。スパイを助ける組織の頼もしさと、間抜けな警察との活躍もあり無事に逃げる。残念だったのは教授の数式をメモリーするんじゃなくメモするポール・ニューマンの無様な姿だ。これによりポール・ニューマンの無能さが露呈されたような気がする。唯一殺された男や、スパイの重要なメンツは存在感があって素晴らしかった。恋愛は相変わらず芳しくない。90点。

カプリコン・1

ピーター・ハイアムズ、1978。前半のSFにしても後半の砂漠の航空アクションにしても、スリルやサスペンスがまるで感じられない。かといってリアリティがあるわけではないから、一体全体なにをやろうとしているのかわからない。脚本の段階でA級に作ってもB級に作っても歴史に残る話題作となるのはまちがいないだろう。しかしこの映画はBなのにAを撮っているかのように見える。隠蔽される事実とそれによって消される宇宙飛行士たち。物語はそのラインのなかでひたすら重々しい展開を見せる。唯一、記者のエリオット・グールドだけが軽快であり無敵な役回りを演じている。だからエリオット・グールドの周辺はおもしろいし痛快だ。撮影で気になったのが良いショットではないのにカットしなかったり、すごく引いた場所から長回しで撮影したりするところだ。この撮影スタイルと映画から感じられる鈍痛はかなり類似している。だとすればそういう鈍くて重々しい映画に撮影スタイルは有効に作用していることになる。エリオット・グールドのヒーロー物として見れば目的も達せられるしおもしろいシーンもあるし上々の出来だといえるかもしれない。しかしそれ以外はスケールの大きさに対して視点がかなり脆弱に見えるのがもったいない。いろんな見方ができる映画だと思うのだが、エリオット・グールドの映画としてしか興味がわかなかった。90点。

マーニー

アルフレッド・ヒッチコック、1964。オープニングからショーン・コネリーとティッピ・ヘドレンが結婚するくらいまでが特におもしろい。全員が謎めいていてティッピ・ヘドレンの母子のシーンなんて素晴らしく奇妙だった。そのあとはラストシーンを引き出すまでの精神医学的なたゆまぬ努力といった感じでダレてくる。それでも映像演出はさすがヒッチコックという部分が随所に見られる。ショーン・コネリーの会社に入社したてのティッピ・ヘドレンが金庫をうかがうシーンのショットの構成はとてもエキサイティングだ。起こっている出来事を映し出すカット割りに金庫狙いの視点のショットが異物のように混入する。とてもスリリングな映像演出には驚かされた。同じ場所での金庫破りのシーンでも素晴らしい映像演出が見られる。スーパークローズアップからスーパーロングショットへのカットから掃除婦とティッピ・ヘドレンの描写へと移行していくシーンはとてもおもしろい。この映画は、映像演出は素晴らしいが物語や演者はイマイチ、というヒッチコックによくあるパターンの映画だろう。精神病理学的なアプローチがメインになっているのに脆弱な感じがするし、ショーン・コネリーは保護者や慈善活動家のように見えてしまった。ショーン・コネリーの偏執的な愛情や性的欲求と、ティッピ・ヘドレンの泥棒癖は密接につながっていると思われるのだが、そこは納得できる描写にはなっていない。評価としては下り坂的な作品になってはいるが、映像演出の大盤振る舞いを見る限りまだまだグイグイ攻めている。90点。

日本一のホラ吹き男

古澤憲吾、1964。無責任シリーズの最初の二作が大好きなのだが、あちらの脚本を手がける田波靖男のようなブッ飛んだアナーキーさがこの映画にはない。笠原良三の脚本はかなり現実的だ。しかしそれをアナーキーに仕上げてしまうのが古澤憲吾の力量というものだろう。この映画は映像演出がすごい。特に会話のシーンでは無理やりイマジナリーラインをまたぎまくる。しかしそれをさほど意識させないのは、会話中の人物の移動や、カメラの移動、さらには唐突なローアングルのショットや、会話する部屋の外からのショットなどの撮影演出がてんこ盛りだからだ。それらがゴツゴツとしたうねりを生み出し会話シーンの緊張感を作っている。階段は映像演出としてのみならず、物語の上でも有効に作用している。どこもかしこも階段だらけで植木等の登場シーンも階段だ。しかし明らかなメタファーとして存在する階段ですら軽快に使われまくる。まるでヌーベルバーグのようなフットワークの軽さやチープな作劇は見ていて気持ちがいい。トリッキーなズームアップやズームアウトも印象的だ。物語としては突飛な役者の不在がもったいないような気がした。あの由利徹ですら去勢されたように演じている。この映画は馬鹿炸裂も描いてはいるのだが、やはりサラリーマン喜劇という枠を逸脱せずに描かれている。そのあたりはいま見ると物足りなさを感じてしまう。浜美枝との結婚へと至る唐突な展開はおなじみのものだが、「ニッポン無責任野郎」で見られた団令子との結婚のようなパンクすぎてお手上げという状態にはならない。映像演出は本当に素晴らしかった。95点。