一枚のハガキ

新藤兼人、2011。戦争を描いた映画であり、特に前半は重々しいのだが、どこか牧歌的な語り口を持った映画になっている。激しい情念を感じるのだが気楽に見れてしまうのは、新藤兼人の作品ならではといえるだろう。死を覚悟していた六平直政が豊川悦司に託した一枚のハガキ。読んだことを妻の大竹しのぶに伝えてほしい。戦後、豊川悦司は大竹しのぶに会いにいく。見せ場はそこにあるのだが、この映画ではまず戦争における死を反復させながら描いていく。そして豊川悦司は逆に死んでもらいたかった人間として描かれる。死ぬも地獄、生きるも地獄というリアルな現状がそこにはあり、それが六平直政と豊川悦司と、その家族を対照させることで描かれている。そんななか、生きる苦しみにもだえている豊川悦司と大竹しのぶは出会う。このふたりの長回しなんかは普通なら体が硬直してしまうような緊張感があっても良さそうなものだが、新藤兼人だとそうはならないから素敵だ。実際に大杉漣の後半の活躍は戦後の地獄を見事に緩和させていた。あと、豊川悦司と大竹しのぶのラブシーンを描かなかったのもすごく好感が持てた。そして戦争や家族や死の象徴であった家やハガキが焼かれ、畑が耕されていくさまは、人間の再生の物語として神々しいまでの輝きがあった。限られたロケーションや抑制された台詞など、引き算の美学を感じさせる作品である。95点。

シェーン

ジョージ・スティーヴンズ、1953。西部開拓時代のワイオミングでは、開拓農民たちと古くから住む悪徳牧場主のあいだで争いが絶えなかった。そこに流れ者シェーンがあらわれて、という西部劇。この映画はとてもアメリカ的な映画といえるだろう。アメリカ人の発言によく聞かれる、地元愛や家族愛の尋常ではない強さ。ちょっとびっくりするくらいに強い。そしてこの映画の根幹には強烈な地元愛や家族愛がある。思い出されるのはヴィンセント・ミネリの『若草の頃』だ。そして『若草の頃』でいえばジュディ・ガーランド一家にあたるのがヴァン・ヘフリン一家だ。そこに流れ者のアラン・ラッドが登場する。物語はヴァン・ヘフリンの息子の視点を有効利用して語られていくのだが、この少年にこの大役は力不足な感じがした。しかし少年ゆえの行動力は存分に生かされている。それはこの映画に出てくる様々な動物たちと同じように、大人では決してあり得ない行動であったりする。その演出がピークを迎えるのが、ラッドとへフリンの決闘のシーンだ。動物たちが動き回るのだが、カメラも自在なポジションからそれを捉えていく。この映画全体を通して撮影と編集は素晴らしかった。切り返しは大胆不敵にやってのけるし、カットの多さが長回しの効果を押し上げていた。そしてやはりアラン・ラッドの早撃ちと銃声は、後世に影響を与えるのも納得の見世物だった。95点。

東京流れ者

鈴木清順、1966。日活アクション映画や歌謡映画の流れにある任侠映画。つまりは大娯楽作といったところなのだが、そこに清順節がちょうどよい塩梅で乗っかっていてとても楽しめる。キメキメのアヴァンタイトルや、同じくキメキメの照明やセット、ぶつ切りのカッティングに鋭いショットが連発され、アヴァンギャルドなテイストが映画の端々に見られる。しかし娯楽と芸術の軋轢みたいなものはあまり感じさせず、それらは見事に調和している。基本的には歌ありアクションありの娯楽作品であり、物語はヤクザものによくある義理や人情を主題としたものだ。脚本も絶品とはいえないレベルのものだし、演者を演出するという意味においては、この映画の役者たちは物足りないところがある。そうなるとやはり清順節ということになってくる。異様な空間づくりと、これまた異様な照明。そしてショットやカットのおもしろさがこの映画を俄然おもしろくしているのだ。要所要所では空間と照明が効いていたし、全体としてはショットの多彩さや異様さ、それにカッティングが素晴らしかった。この映画を見渡したときに、歌謡アクション、アヴァンギャルド清順、正統な技巧派清順、という三つの要素が印象に残った。そして、正統な技巧派清順の素晴らしさが、娯楽と芸術を橋渡しするような形になっており、娯楽映画として楽しめるものになっていた。95点。

太陽は光り輝く

ジョン・フォード、1953。物語は1900年頃のケンタッキーの田舎町が舞台で、判事プリーストを通して語られる。彼には選挙が迫っており、票集めをしたいとも思っている。しかし譲れないものがある。それは人間の尊厳といってしまえばそれまでなのだが、その描かれ方が素晴らしいのだ。出番は少ないものの重要なキャラクターである女の登場シーンが忘れられない。船が去り、彼女が残り、アップになる。それだけで驚愕なのだ。船の作り出した波の色とうねりは、彼女の行く末を見事に暗示している。それをアップで捉える彼女の視線が強調する。その後も物語の枝葉を回収するような役割を演じ、この映画のハイライトとなる葬列のシーンとなる。この長いシーン、音は馬の蹄の音と車輪の音と人の歩く音のみである。それが最高に効果的なのは、映画を彩る劇中音楽があるからだろう。フォードは様々な登場人物やエピソードを、いい意味で無造作に演出している。そこには説明不足的なわかりにくさがあるのだが、それを上回る美学が感じられるのだ。そして、判事が貫く人間の尊厳には決して色褪せることのない普遍性がある。判事のラストは素晴らしいもので、そこには無造作ではないフォードの深い愛情が感じられた。100点。

怪物はささやく

J・A・バヨナ、2017。余命いくばくもない母と孤独な少年。そこに怪物があらわれて3つの物語を語り、4つ目の物語はお前が語るのだ、と少年にささやくというお話。この映画の最大の魅力はオープニングクレジットでも顕著だった絵画的なアニメーションにある。1つ目と2つ目の物語もそのアニメーションによって構成されている。その美しき世界があり、現実的な怪物がいる世界があり、現実の世界がある。物語は少年との関係性を常に意識させる。それは類似や差異や対照といったものだ。怪物の語る物語のなかではそのバリエーションが提示される。そして現実世界ではフェリシティ・ジョーンズ演じる余命いくばくもない母との類似がほのめかされ、徐々に決定的なものとなっていく。少年は4つの物語の過程で成長し、少しだけ大人になる。怪物と母との関係の控えめな描写が素晴らしい。声は怖いし厳しいことばかり言う怪物もまた素晴らしい。キャラクター的に説教臭い大人になってしまうところをうまく回避していた。ラストに強力な反復のモチーフを効果的に使うあたりは心憎いものがあった。物語がやや混雑しており、うまく処理しきれていない印象がある。それでも少年とシガーニー・ウィーバーの踏切待ちの抱擁など、素晴らしいシーンもいくつかあった。美しいアニメーションが後半になって激減してしまったのは残念だった。95点。

青春残酷物語

大島渚、1960。『世界残酷物語』を見ようとして間違えて見てしまった。若いダメな男女が行き着く先もダメというストーリー。この映画で「松竹ヌーヴェルヴァーグ」という名が生まれたらしいのだが、それすらよくわからないものがあった。やはりこの映画の男女関係は時代性に埋もれてしまうものであるため、五十年以上経過したいま見るのはしんどいものがある。もちろんメッセージ性はわかるのだが、それが切実に響かないのだ。撮影は基本的にはワンシーン・ワンカット。低予算の為か、いそいで撮ったのか、そんな理由だと思われる。それにより飽きさせない展開の早さは生まれていた。しかし更なる効果を生み出しているとはいえない。この出来損ないの作品をもうちょっと見れる作品にするには、桑野みゆきと川津祐介の無軌道性のみに焦点が当てられるとよかったのかもしれない。姉世代の学生運動とかいろんな人物の人生観とか、そういうものはまったく必要ではなかった。ふたりに焦点を当てながら素晴らしいシーンを撮りまくるだけで、ある程度は映画になる。しかし冒頭の海のシーンくらいしか印象に残っていないというのはなんとも寂しい。同じ年の大島渚『日本の夜と霧』には映画に構造的なおもしろさがあったと記憶している。対してこの映画には構造的なおもしろみをあまり感じることができなかった。85点。

キサラギ

佐藤祐市、2007。あるC級アイドルが自殺して、一周忌ということでファンの男5人がひとつの部屋に集まる。ファンの交流会のはずが、死の真相をめぐる密室推理劇となっていく。演じるのはユースケ・サンタマリア、香川照之、小出恵介、塚地武雅、そして小栗旬の5人だ。演技がまず素晴らしくそれだけで見入ってしまう。そしてそれぞれのキャラクターが脚本でよく練り込まれている。ただのアイドルファンからAに転じ、さらにBに転じるのだ。だから見ていて飽きないのだが、撮影もよくできている。アップでカッティングを連発したりはしない。箱モノを強烈に意識させるカメラポジションが多用されている。見る者はみな部屋のどこになにがあるか簡単に把握するだろうから、あたかもその場にいるような感覚に陥る。物語自体もミステリー仕立てで二転三転するのだが、やはり最大の魅力はアイドルという虚構をリアルに描いているところだ。つまりファンタジーとしてのアイドルが解体され、再構築されるさまが映画で見事に表現されていることだ。手紙の伏線からの回収なんてアイドルに限らずファン冥利に尽きるものがあるのだが、映画は華麗にそれを描いてみせる。終盤はちょっとダラけたし、アイドルは登場しなくてもよかったと思ったし、ラストのラストは不要だった。ラストをビシッと決めていれば密室劇の傑作になっていたかもしれない。95点。